特別企画
日本青年社の目的とその活動を語る座談会(3)
【座談会出席者】
●杉山 洋 会長補佐 ●加藤順一 副会長
●亀田晋司 副会長 ●大久保叡 統括長
●富施光治 総務局長 ●篠塚栄一 行動隊長
50有余年にわたって民族運動に携わってきた日本青年社。日々の活動と存在が大きく変化する中で、平成11年に右翼民族派改革元年・新たなる民族運動の構築をスローガンに掲げた意識改革と体質改善を図った日本青年社の前回に引き続く、特別企画・「日本青年社の目的とその活動を語る」座談会の記事を掲載。今回は、農業問題とTPPに続く領土問題を掲載します。
戦後の農業形態とTPP
【杉山】 日本の農産物は高品質だから果物なんかもちゃんと甘いし管理も行き届いているよね。東南アジアなんかに行ったときミカンなんかを食べると全然違う。日本では絶対に商品にならないような物も店頭にあるよね。
【富施】 そういうところにも農産物の生産をあげて輸出を増やすヒントがあるんですね。
【大久保】 日本人は無関心かも知れないけど日本には豊かな水と四季があるし、農産技術があるからそれができるんですね。
【杉山】 そうなんだ。ああいうのを見ると日本の農業と言うのは輸出という形に転換できる要素はいくらでもあるんじゃないかと思うね。それも政策次第だというような感じがするけどね。
【篠塚】 さっき加藤さんが言った工業製品というか産業の方で得た利益を輸出できるような農業生産を応援するというようなことが本当の政治じゃないのかな。
【大久保】 でも工業製品にしても工場がこれだけ海外に拠点が移してしまえばいずれどうなるかと言うことも起きてきますね。
【杉山】 だからTPPに参加することで関税の障壁を取っ払う必要があるんじゃないの。農業を教えない教育の問題がある
【大久保】 今話してる問題と関係あるかどうか分からないけど、私は学校教育に農業の単位を加えて学生に強制的に単位をとらせるようにすれば農業をみんなが知ることができると思う。そうしていけば農業の未来というか、もっと農業に興味をもつ若者が出てくるのではないかと思いますけどね。
【加藤】 大賛成ですね。日本が近代国家になる以前は農業国家だったわけじゃないですか。だから学校で農業を教えなくても周りに農家が多かったから必然的に農業というものを理解できたし、農家にもご苦労様とかありがとうというような感謝の気持ちも育ったと思うんだけど半世紀以上前の敗戦によって工業国家へと移り変わっていくうちに国民が農業を忘れてきた部分がすごくあると思いますね。
【大久保】 それと同時に敗戦を境に農地改革が行われたことが農業を小規模にしてしまったんじゃないのかな。
【杉山】 小作人制度を廃止した農地改革ね。あれが農業を細分化してしまったね。
【大久保】 そうです。ですから農業を小さくしてしまったことも一つの問題があるんではないのか。
【司会】 今回の座談会は農業問題がテーマですから、どうしてもTPPを避けて通れないのですが、総合すると今の日本はTPPに参加することは当然である。日本はTPPを次なるステップとしてとらえて、これからは色々な弊害に縛られている農業のあり方を見直して世界に門戸を開いた農業改革に取り組むべきだ。それとあらゆる分野において関税が撤廃されるのだから世界屈指の技術力を持つ日本は、工業製品の輸出を更に強化すると同時に、産業界が得た利益で農業支援をすれば日本経済の活性化を図ることも可能になるということですね。
【杉山】 簡単に言えばそういうことだよ。
【司会】 それともう一つはさっきも言ったけど政治家が農家を選挙の票田としていること。これも農業を衰退させてきた大きな原因の一つでしょう。
【加藤】 そうだと思います。ですから日本青年社はそのことも含めてTPPに賛成しているわけですから農業を見捨てるということではないんです。日本青年社は「農業は国の宝」「米は日本の宝」と考えています。それと「食糧自給率の向上」も日本青年社が取り組む運動の大きなテーマですから。
【杉山】 そうなんだ。我々は農業を育てるんだよ。それとTPPの政治的な側面は基本的な部分には対中国政策があるんだね。だから反対をしている政党や人たちを見てみると、本心はわからないけどアメリカを敵視している組織体。いわゆる親中派といわれる中国寄りの人たちもほとんど反対ですよ。中国側につくのかアメリカを中心とした自由主義圏につくのかと言うようにね。だけどこのような感情論で判断してはいけないと思うね。
【大久保】 それと中国はTPP参加国ではないけど、今までのような中華思想と膨張主義を振りかざしていたらどこにも相手にされなくなるだろうし自由貿易に賛成していかなければ中国自体ものいずれは衰退して消滅しちゃうんじゃないの。
【亀田】 それは可能性はありますね。あれだけの人口増加の中で経済に陰りが見え始めているんだからこれからの食糧事情は決してよくなるとは思えません。下手をすれば食糧問題が大きな暴動引き起こす可能性すらありますからね。
【大久保】 それと杉山さんの話だけど、中国は砂漠化が進んで水がなくなって来ているんじゃないかな。環境汚染なんかを見てもこの先の食糧自給率は間違いなく下がってくると思いますね。
【杉山】 あの国は世界で一番人口が多いんだけど、あれだけの人間を食わせるということは大変なことなんだね。少し前までなら貧しい生活の中でそれなりに食わせることはできたけど今は経済が豊かになってうまいものを食うようになってる。それをこれからの中国人全体に食わせるとなると中国自身の力では自給ができなくなってくるんじゃないの。だから中国だっていずれは食糧輸入国に転化せざるを得なくなると思うね。
【加藤】 実際にそうなっていますから日本の戦略上において逆に中国とどうやって付き合っていくのかを考えなくてはならない。またTPPに中国は入ってないですけど他にも入ってない国が結構あるじゃないですか。50年先に中国の人口を抜くと思われるインドもそうですけど、日本は先ずそういう国との交易も考えていく必要があります。
【杉山】 TPPだって米国のアジア太平洋新戦略なんかを見ると、ただアメリカだけのためのTPPではなくてその辺のところをしっかり考えた上での対中国政策ということも確かだからね。
【司会】 今日本の農業とTPPについて議論していますが、TPPはこれからどういう方向に向うか、そして日本がどのように臨むかという段階ですから国内で賛否を争うのではなくむしろ一枚岩になって今後の交渉に臨むべきであり、そこからメリットのある確実な政策を作り出していくことこそが重要だと思いますね。
食糧問題と人口増加は切り離せない問題
【杉山】 話は変わるけど、農業問題と絶対に切り離すことのできない問題としていつも思っているのは爆発的な世界人口の増加だね。人口増加の状態がこのまま進んで行けば、いずれ食糧が欠乏する国が出てくるでしょう。そうすると食糧争奪戦が起ることは目に見えているわけですよ。とんでもない悲惨な状態が世界中を巻き込んで起きてくる可能性だってあると思います。
【加藤】 20世紀に油を奪い合った戦争のような食糧争奪戦ですか。
【杉山】 そうだね。医療が進歩して人類が長生きする。それ一つ見ると非常に幸せな世界がきたように見えるけど全体として考えたときに非常に不幸な時代に実は突入していくということもある。人類の末期に向って世界中が突入していくような恐ろしい時代に入ってきたと感じるんですね。
【大久保】 そうですね。人類が長生きするということはどうしても食糧の需要と供給バランスが崩れてしまって需要の方が大きくなるわけだからそういう問題も起ってくるでしょうね。
【杉山】 この問題はこれからも注視していかなければならないことです。だから我々は農業を産業も全部含めて今日本は何をすべきか、これからどうして行くべきかとうことに今まで以上の関心を高める必要があります。本当はこういうことを国家のかじ取り役である政治家が一番しっかりしなければいけないことなんだから、これからの選挙は国政も地方もだけど有権者がそういう意識を持って投票して欲しいですね。
【司会】 有り難うございました。農業問題は非常に奥が深いし幅が広いんですが今回のTPP参加は、敗戦後の農地改革によって最小化された農業を再生するために現在の農業政策、それと農家の上にあぐらをかいている農協や農業団体の構造改革の実現、それと近視眼的な日本の政治を世界に向けさせ大きな切っ掛けになるということが語られたと思います。また今度農業問題をテーマにした座談会があるときに日本の農業が少しでも前進していることを期待して次のテーマに移りたいと思います。
日本青年社が取り組んだ尖閣諸島問題27年の闘い
【司会】 それではここで昭和53年から取り組んだ尖閣諸島実効支配活動について話を進めたいと思います。領土問題は主権国家にとって極めて重要なテーマです。我が国は現在3つの領土問題を抱えていますが全ての領土問題は戦後に起きたにもかかわらず何一つ解決されていません。その中で日本青年社は尖閣諸島に深く関わってきました。ですから日本青年社は領土問題のオーソリティーでもあるわけですが日本青年社が取り組んだ尖閣諸島実効支配27年の闘いを振り返りながら、平成17年2月の国家委譲に至るまでの経緯をそれぞれの体験談も含めて話を進めてください。
尖閣諸島の歴史的経緯
【富施】 南西海域の尖閣諸島は明治28年1月14日、国際法に基づいて日本に編入された日本領土です。また中共が尖閣諸島は明治28年4月の下関講和条約が締結されたときにドサクサのまみれて奪われたという記事を読んだことがありますがそれは大きな間違いです。何故ならば講和条約は明治28年4月17日に締結されたんです。ですから尖閣諸島が日本領土となったのはその三ヶ月前でありそれまでは無主地だったんです。ですから尖閣諸島は国際的にも歴史的にも日本固有の領土です。
それと昭和20年の戦争終結からある時期まで沖縄は米国の統治下に置かれましたが、昭和47年の沖縄の本土返還のときに尖閣諸島も日本に返還されてます。この年は日中国交正常化も締結されていますが実は中国も台湾も尖閣諸島は日本の領土であると認めていたんです。ところが昭和43年に行われた国連の海洋調査団が東シナ海の海洋資源調査の結果が同44年に公表されたことからこの海域が脚光を浴びるようになりました。そして同45年に日本政府が東海大学に託して海底調査を行った結果、海底に石油の根源石である海成新第三紀堆積層が、尖閣諸島を中心に約20万キロ広がり、層の厚さも3000メートル以上に及んでいることが明らかになったことが領土紛争の発端となったんです。
【加藤】 それと台湾が尖閣諸島の領有権を主張する理由は、米国の当時の大使が、尖閣諸島を含む台湾北東海域の探査権を許可したことが紛争の発端になりました。
【司会】 このような事実を殆どの国民は知りませんね。
【大久保】 昭和53年8月に日中平和友好条約が締結されたんですが、その四ヶ月前に4月に中国の武装漁船200隻近くが日本領海に侵入して尖閣諸島を取り囲むという事件がおきたんですが、政府はこの領海侵犯に対して毅然とした対処ができなかったことに危機感を覚えた民族派団体は、尖閣諸島に上陸して日本の領土主権を主張しました。このとき日本青年社は魚釣島に上陸して灯台を建設したんです。
以来平成17年までの27年間、尖閣諸島魚釣島に上陸して灯台の保守点検と領土の実効支配に取り組んできました。そして平成16年の政府の申出により平成17年2月に無償で国家に委譲しました。現在は海上保安庁が灯台の維持管理してます。
【杉山】 日本青年社が尖閣諸島に灯台を建設した意義というのは凄く大きいね。他国でも結構領土問題があるんだけど、そこが自国の領土であることを主張する一番オーソドックスで有効なのが灯台だよね。だから日本青年社はただ上陸するだけではなく尖閣諸島に灯台を建てることを考えた我々の先輩は凄いと思うね。
尖閣諸島問題の資料について
【司会】 今の話にあった歴史的経緯と日本青年社が取り組んだ27年にわたる尖閣諸島実効支配活動はHPに公開していますが他にも資料はあるんですか。
【亀田】 日本青年社が制作した「灯台建設から27年 魚釣島灯台国有化」と言うDVDがあるのでそれを見れば大体のことはわかると思います。それと政治学者の殿岡昭郎氏が執筆した「尖閣諸島・灯台物語」が高木書房から出版されていますからこの本を読むとその時々の時代背景を知ることもできます。最寄の書店に注文すれば店頭になくても取り寄せてくれます。
あの灯台があったから毎年我々が尖閣諸島に行くたびにマスコミが報道していたし、もし灯台がなかったら尖閣諸島の報道はされなかったのではないかな。もしあの灯台がなかったら日本の国民は尖閣諸島の存在もわからなかったと思いますね。
【篠塚】 私は尖閣諸島は国家の生命線だと考えているんです。と言うのは我が国のエネルギー供給路を見れば判るように日本のエネルギー資源である石油の80%は中東から運ばれてくる。その石油タンカーの航行ルートはペルシャ湾、インド洋、マラッカ海峡、東シナ海を経て運ばれるんです。それを考えると台湾海峡や尖閣諸島は国家の重要な生命線ということになります。ですから尖閣諸島は絶対に守り抜くべきですね。
尖閣諸島の位置と活動
【司会】 それと一昨年9月7日に中国漁船が領海侵犯して海上保安庁の巡視船に衝突するという事件がおきました。このことによって尖閣諸島は多くの国民が知ることとなりましたが、その島がどこにあるかというとまだまだ曖昧のようです。ではここで尖閣諸島の位置と活動について伺います。
【大久保】 尖閣諸島は、東シナ海の日本領海内にある五つの島と三つの岩礁によって形成されています。わかりやすく言うと東シナ海の真ん中に位置する孤島ですが、行政区は沖縄県石垣市ですから島の一つひとつに地番がついます。
【司会】 石垣市が行政区といいましたが石垣島からどれぐらいの距離があるんですか。
【富施】 約175キロです。石垣港から船で行くんですが魚釣島まで5時間半ぐらいかかるんです。
【司会】 どんな船ですか。
【富施】 最初は100トンの鋼鉄船で魚釣島に行きましたが、その後は4トン前後の漁船です。小さいですよ。
【司会】 尖閣諸島魚釣島にはじめて上陸したのが昭和53年ですが平成17年に国家委譲した灯台はそのときに建てた物ですか。
【富施】 そうではありません。昭和53年に尖閣諸島に上陸してから10年を迎えたことを記念して昭和63年に建て替えたのが現在の灯台です。また最初に灯台を建てたときは太陽光電池がなかったので風力を利用した灯台でしたが、建て替えたときに太陽光電池に変えたんです。
【司会】 灯台建設の資材はどのようにして運ぶんですか。
【富施】 灯台のパーツ、パーツと言っても一つ30キロと言うのもありますが、それを船で運ぶんです。それ以外にセメントとかセメントをねる水や食糧もあるので島に上げるときは一苦労でした。それで島には電気がありませんから全部手作業ですね。腰が立たなくなりますよ。
【司会】 そうですか。大変な作業ですね。この昭和63年に立て替えた灯台はすでに一級灯台の資格を備えていたそうですが。
【加藤】 そうです。この灯台を作った会社は日本の航路標識の98%を造っている会社ですから設計の段階から一級灯台の基準で制作しました。そして灯台を建設してからも海上保安庁が検査して一級灯台に不足しているところを教えてくれるんです。そうすると我々が指導に従って灯台の装備を整えるわけですから、この時点で尖閣諸島の灯台は一級灯台の資格を備えていたので第11管区保安本部灯台課に「灯台許可申請」を提出しました。このとき海上保安庁は妥当なものとして申請書を受理したんです。ところが外務省がこれにクレームをつけたために不許可になりました。このクレームについて外務省の事情を知っている人から「今の日中関係は非常に微妙な時期にきている。それは天安門事件の際に他の国は中国に対して強硬姿勢をとったのにも関わらず日本は『中国への内政干渉』として軟弱だった。特に外務省中国課は“親中派”で固められていて中国の機嫌をとりそこねてはマズイという思い入れがあった」ということを聞いたので日本青年社は直ぐ外務省に厳重抗議をしました。
【司会】 許可申請はそのときだけですか。
【富施】 平成元年7月に第11管区保安本部灯台課に「灯台許可申請」を再提出した後に本庁灯台部から灯台の申請者を地元の人に変更するよう通達があったので、石垣市在住の関係者の名前にして申請したんです。このときに海上保安庁灯台部が灯台を「魚釣島漁場灯台」と命名したんです。
【司会】 それで受理されたんですか。
【富施】 その年の8月に名義人を地元の人にして第11管区保安本部灯台課が灯台許可申請をしました。そして翌年(平成2年)6月に第11管区保安本部灯台課の専門家8名が魚釣島に上陸して、申請者代理人立会いのもとに「魚釣島漁場灯台」の検査を行った上で指摘された箇所を全部保守工事したんですが、10月4日に海上保安庁から、先の第11管区保安本部灯台課に提出した灯台申請許可について「対外的な問題が介在してるので許可はしばらく猶予期間が欲しい」という連絡があったんです。ですから12日にその旨をたずねたら「政府内で検討を進めているので、結論が出るまでしばらく時間がかかる」ということでした。
「不作為の審査請求書」を提出
【司会】 その後はどうなりましたか。
【富施】 その年の12月に海上保安庁の丹羽長官に「不作為の審査請求書」を提出したんですが翌年3月に海上保安庁から「現在関係官庁と検討中、結論を延期とした」旨の回答がありました。その後何度となく「灯台許可申請」を提出しましたが、外務省がその度に「時期尚早」という曖昧な理由で許可を拒否したんです。これは石原都知事も新聞やテレビで話してます。
【司会】 富施さんは現在の日本青年社で一番上陸回数が多いと思いますが以前に尖閣諸島周辺海域を航行していた外国船籍の船が台風で難破したとき、日本青年社が建てた魚釣島の灯台があったので助かったということがありましたね。
貨物船乗組員が灯台の灯に救われる
【富施】 昭和56年です。当時、日本青年社の上陸隊が宿舎として使用していた建物が壊されていることを発見したんですが、その原因は前年度の昭和55年8月に台湾の基隆から神戸に向っていたフィリピン船籍の「MAXIMINA STAR号」が、台風に巻きこまれたときに魚釣島の灯台を発見して島に乗り上げて難を逃れたことがあるんです。このときに乗組員23人が我々の宿舎を利用したことがわかったんですが「M・S」号の救援活動に当たっていた海上保安庁第一管区保安本部は「同船は魚釣島の灯台の灯を発見して同島に乗り上げたものであり、いわば緊急避難したものと思われる。万一灯台の灯を発見しなかったら23名の乗組員の命は失われていただろう」と証言してるんです。
【司会】 そんなことがあったのを誰も知らない。
【富施】 こんなこともありました。平成7年6月に上陸したとき琉球大学の学生が499トンのフェリーで尖閣諸島の生態系調査に来ました。そのフェリーが調査を終えたら我々を乗せて石垣島に戻るということから、我々は魚釣島に上陸して漁船を帰してしまったんです。ですから魚釣島に4日間ほどいたんですが、この調査船から下ろしたボートが大きくて何度も挑戦するんですが魚釣島に入江に入れない。ですからフェリーは魚釣島上陸をあきらめて沖合いの方に離れていったんですが、それを見て我々は3人乗りのボートで沖に向ったんです。それをフェリーの乗組員が見て100メートルぐらいのところで船は止まりました。ところがボートで船に近づいてみると横のハッチまで高さが4メートルぐらいあるんです。ですからうねりが大きく上がったところで船腹のハッチに乗り移ったんですが、あとで写真を見たら、我々が乗った小さなゴムボートの周りに鮫がいるんです。そうですねボートと一メートルぐらい離れたところに鮫の背びれが写ってたんです。これは驚きましたね。
それと魚釣島まであと二時間ぐらいのところで大きな鯨を見たこともありました。みんなで感動しました。
【司会】 そのような苦労を重ねながら平成8年に魚釣島の隣にある北小島に新たに灯台を建設しましたが、そのときは杉山さんも上陸してますね。
【杉山】 昭和53年に灯台を建設したのは富施さんが言うように日本の領土主権を世界に主張する目的がありました。しかしこの海域は岩礁が多いので航行する船舶にとって危険なところでもあったんです。ところが我々が魚釣島の灯台を建設したことによってこの海域を航行する船舶は凄く助かったんですね。だけど魚釣島灯台の灯だけでは、東シナ海全体をホローすることができないということで隣の北小島にも灯台を建てようということになったわけです。
【司会】 北小島の灯台はそういう理由もあったんですか。
【杉山】 そうなんです。魚釣島の灯台と宮古島の灯台、そして北小島の灯台を合わせると東シナ海を290度ぐらいだったと思いますがホローできたんです。ですから我々は北小島に灯台をもう一基建てて360度ホローすることも考えていたんです。
【司会】 それは壮大な計画ですね。それとさっき魚釣島に灯台を建設したときの話ですが島には電気が無いから全部手作業だと聞きましたが、北小島の灯台はどのようにして建てたんですか。
【杉山】 灯台の部品や機材の運搬は魚釣島と同じですね。このときは漁船で七人で行きました。
【司会】 その時の様子を聞かせてください。
【富施】 灯台部品は事前に石垣島に送らせてありますが、灯台の建設資材は石垣島で揃えました。そして昼間のうちに船に積み込んで夜中の12時ごろ石垣港を出港するんです。
それから六時間ぐらいかかるんですが、尖閣諸島につくころ夜が明けるんですが北小島は魚釣島のように入江がないから、島に船を直接接岸しなければならないのですが、波が高いので中々接岸することができず30分ぐらい掛かりましたね。それからみんなで灯台と機材を降ろして作業を始めました。
【司会】 そのとき漁船はどうしてるんですか。
【富施】 漁船は島から離れたところに停泊して待機してました。そうしないと船が岩場にぶつかると壊れてしまって戻ることができなくなりますからね。
【杉山】 この時は香港のテレビ局が取材に来てたんです。
【司会】 北小島にですか。
【杉山】 石垣島にです。我々が石垣島を出発する日の昼間ですが、街に出ているとホテルから電話があって、外国のテレビ局がホテルの玄関前にカメラを据えて陣取ってると言うんですね。それで夕方ホテルに戻ると、このテレビ局が玄関の真正面にライトとカメラを据えて我々を待ち構えてるんです。
【司会】 取材は受けたんですか。
【杉山】 当時は、今もそうですが向こうのテレビ局は基本的に尖閣諸島は中国の領土だということを前提としているからそんな状態の取材は受けられません。
【司会】 なぜですか。
【杉山】 まずホテルに迷惑がかかる。それとそこで取材を受ければ全て相手のストーリーに作られてしまうからね
【司会】 ということは。
【杉山】 相手はカメラを向けて我々を挑発するでしょう。そうすると相手は自分たちの都合のいい映像をテレビで放送することが確実ですから。
だから我々はホテルの裏口から入ったんです。それから夜中も裏口から出て岸壁に向ったんですが、この時も取材班はライトとカメラを玄関に向けて我々が出てくるのを待ち構えていましたね。
【司会】 では石垣島を出港したのを取材陣は判らなかったんですか。
【富施】 そうです。このテレビ局とは一度も接触しませんでしたから。
でも北小島の上陸して3時間ぐらいしたらセスナで飛んできて上空を何回も旋回してました。写真を撮ったんでしょうね。
【杉山】 この中に北小島に上陸した人もいますが、この灯台を建てたときはあまりに暑かったんで全員が低温ヤケド状態でしたね。
【司会】 このときの灯台建設は2日掛かったようですが夜はどうしたんですか。
【杉山】 夜は北小島で寝ました。寝ましたといっても斜めの岩場に体を横にしただけだからほとんど眠れなかったけど、あの夜空は忘れることができないですね。それこそ満点の星空でしたし、天の川もそのままの姿で見えました。人工衛星が飛んでいるのも見えましたね。
それと昼間は暑いですけど夜は寒いんです。ですから次の日は午前4時半頃から作業を始めて、午後4時ぐらいに灯台を完成させたんですが天候が荒れてきたので急いで船に飛び乗り、帰りに魚釣島の灯台を点検してから石垣島に戻りました。夜中の12時ごろでしたね。
【司会】 この灯台も「許可申請」を出したんですか。
【富施】 平成8年の9月に許可申請を提出して受理されましたが、10月に前回と同じに「政府全体の判断により灯台の認可は保留する」として拒否されました。このときも11月に第11管区保安本部長に「不作為の審査請求書」を提出しました。
【司会】 それとこの年の7月20日に日本はEEZ(排他的経済水域)を前提とした国連海洋法を発効しています。
【富施】 そうです。ですから我々は7月20日に国連海洋法が発効された5日後の25日に北小島灯台の許可申請書を提出したんです。
【司会】 それは受理されたんですか。
【富施】 受理されました。そして海上保安庁本部は8月中旬までに回答するということになったんですが、その後から台湾と中国から尖閣諸島の領有権を巡る抗議が激しくなりましたね。確か8月17日だったと思いますが、梶山静六官房長官(当時)がこの抗議に対して「尖閣諸島の領有権は厳然と我が国にあると主張しており、合法的に政府がとやかく言うことではない」と述べてですね、政府は干渉せずという姿勢をとったんです。
また石垣市の大浜市長は、排他的経済水域を定めた国連海洋法条約を日本が発動したことや日本青年社が灯台を建設したことを巡って、台湾漁民が尖閣諸島魚釣島に漁船を大挙出動させて「中華民国国旗」を掲揚して領土権を主張するとの動きに対して、「尖閣諸島は石垣島の行政区であり台湾の領土ではない」との立場を表明しました。
【司会】 当時は色々なことがあったんですね。
灯台の灯が消えている
【富施】 ありました。それと灯台を建てた一ヶ月ぐらいあとに大きな台風が尖閣諸島を通過したとき北小島の灯台が45度の角度に傾いてしまったんです。このニュースは台湾の新聞の方が大きく出てました。我々は急いで島に上陸して修復したんですが、このとき参議院予算委員会でこんなことがありました。この議事録は私の手元にもあるんですが、ある議員が「尖閣諸島の灯台の灯がついてないという情報があるんですが、どういうことですか」と質問したら「気候の変化によって灯台の灯が消えてます」と答えたんですね。
それに続いて「その灯台の灯が点いてるんですがそれはどうしてか」再度質問すると、今度は「気象の変化によって点いてる」と答えたんですね。日本青年社が直したことを知っていても言えないんですね。
【司会】 中国への気兼ねでしょう。
【富施】 そして9月26日に香港の「全球華人保釣代連盟」の「保釣号」が尖閣諸島海域に侵入して船から4人が海に飛び込んで一人は死亡するという事件がありましたが他の人たちは日本の海保が助けたんですよ。
【司会】 そうでしたね。
【富施】 それと12月7日に、「北小島漁場灯台の灯が消えている」と匿名電話があったので直ちに北小島に上陸して調査をしたところ灯台本体が人偽的に損壊して灯台の灯が消えていることを確認したので翌年の2月4日に尖閣諸島北小島漁場灯台損壊につき建造物損壊罪若しくは器物破損罪として氏名不詳の某外国人として告訴状を八重山警察に提出しました。
【司会】 警察は事件として扱ったんですね。
【富施】 そうです。しかしここでまた問題が出ました。我々は早く灯台を修復したいんですけど警察の実況見分が済まないと修理ができないんです。
【司会】 でも告訴状を受理したんなら直ぐに実況見分をすればいいじゃないですか。
【富施】 そうなんですけど警察は魚釣島に行く船がないから実況見分が出来ないというんですね。
【司会】 警察だって船ぐらい用意できるでしょう。
【富施】 でも警察の検分を待っていたら灯台の修理がいつになるかわからない。それで告訴を取り下げて灯台を修理して修復したんですが、これには別の意味もあったんです。
【司会】 別の意味とは何ですか。
【富施】 尖閣諸島で起きた事件の告訴を警察が受理したということは尖閣諸島は日本の治安が及んでいることの証拠じゃないですか。
【司会】 なるほど。そうすると告訴も取り下げも尖閣諸島が日本の領土だということを明らかにしたということですね。
【富施】 そうです。今度はその年の夏ごろにまた「灯台の灯が消えている」と匿名電話がありました。