特別展を見学

 衆議院憲政記念館で5月23日〜6月14日まで開催された特別展に、日本青年社は6月14日亀田情宣局長以下数名の隊員が見学、吉田茂の行動と時代を検証する一つの手がかりとなった。

見学を終えた亀田局長は「吉田茂については様々な評価があるが、是は是、非は非として素直に吉田茂を評価するべき点もあると思う。いい勉強になった」と語った。

 今後の情宣行動にいかされることだろう。



吉田茂時代と人と

 戦後、東久邇稔彦・幣原喜重郎両内閣の外相であった吉田茂は、1946年(昭和21)5月、公職追放となった日本自由党総裁鳩山一郎らの要請によって後任総裁就任を受諾、第一次吉田内閣が成立した。以後片山哲・芦田均両内閣を経て政権に復帰、1948年(昭和23)10月から1954年(昭和29)12月の第五次吉田内閣総辞職まで、通算7年2ヵ月にわたって首相の地位にあった。

 この間、占領下の困難な時期、GHQ(連合国軍総司令部)との折衝に苦慮し、国内では革新勢力の強い時期にあって、憲法改正審議に当たり、日本国憲法を公布・施行、農地改革など民主化政策を実施した。1951年(昭和26)9月には、サンフランシスコ講和会議に首席全権として出席、対日平和条約、日米安全保障条約を締結、日本を独立に導き、経済復興の基礎を築くなど、戦後の日本の進むべき基本的方向を決めた。



 吉田は、高知の自由民権家竹内綱の五男に生まれ、貿易商吉田健三の養子となった。1906年(明治39)外務省に入り、天津及び奉天の総領事を経て、外務次官や駐イタリア・駐イギリス大使を歴任、1939年(昭和14)退官した。日米開戦に強く反対し、開戦後も近衛文麿らに和平工作を働きかけ、軍部から親英米派とみなされ、憲兵隊に監禁されたこともあった。

 大久保利通の次男で宮内大臣・内大臣などを務め牧野伸顕の長女雪子と結婚したことで、皇室との関係も深かった。「ワンマン宰相」と呼ばれ、白足袋と葉巻のトレードマークは有名であり、また、「吉田学校」といわれたように、池田勇人、佐藤栄作などの実力者を育て上げ、戦後保守政党の源流をつくりあげた。

 戦後の首相の中で、吉田ほど善きにつけ悪しきにつけ話題に上った政治家も数少ない。決して雄弁家とはいえなかったが、辛辣な毒舌や軽妙なジョークは吉田のひとつの大きな魅力であった。


サンフランシスコ講和会議


 1951年(昭和26)7月20日、英米両国は対日高宣戦を布告した他の49カ国に対し、対日講和会議に出席を求める招請状を発送した。また、8月22日には、あらたにベトナム・ラオス・カンボジアの三カ国に対しても招請状が送られた。その中でインド・ビルマ・ユーゴスラビアの三カ国は出席を見合わせたため、講和会議の参加国は52カ国となった。中華人民共和国、国民党改府は、英米間で代表権について合意が得られなかったことから、いずれも会議に招聘されなかった。
 わが国は吉田茂首相を首席全権に、全権委員星島二郎自由党常任総務、苫米地義三民主党最高委員長、徳川宗敬緑風会議員総会議長、池田勇人蔵相、一万田尚登日本銀行総裁の六人が日本全権団として出席することとなった。8月31日、吉田首相以下49名の全権団一行は羽田を出発、途中吉田首相一行はハワイに一泊し、9月2日サンフランシスコに到着した。


 会議は、4日の開会式に続き、5日には議長選挙が行われ、アチソン米全権が選出された。日夜、吉田首相は、「日本全権はこの公平寛大なる平和条約を欣然受諾致します」と受諾演説を行った。調印式は翌8日行われ、ソ連・チェコスロバキア・ポーランドの3カ国は調印を拒否したため、わが国を含む49カ国が調印した。同日、日米両国間で日米安全保障条約が調印された。

 両条約は10月26日衆議院で、2月18日参議院でそれぞれ承認され、翌1952年(昭和27)4月28日に発効した。ここにわが国は占領時代に終止符を打ち、国際社会に復帰することとなった。     

NEXT

【吉田茂とその時代・特別展より】