外交官時代から敗戦まで
1906年(明治39)〜1945年(昭和20)わが国は、日清・日露の両戦争を経て、列強に伍する立場となった。
吉田内閣
そのような情勢の中で、吉田茂は外交官となることを決意、1906年(明治39)9月に外交官及び領事官試験に合格、翌年2月には奉天在勤を命ぜられた。1908年(明治41)にはイギリス在勤を命ぜられ、翌年3月、牧野伸顕の長女雪子と結婚した後、ロンドンヘ赴任した。その後、三等書記官としてイタリア在勤を経て、済南領事となった。
1918年(大正7)11月、吉田は牧野全権の随員を命ぜられ、翌年パリ講和会議に参加、吉田は英米と協力して国際協調に努めることが必要であると痛感した。
奉天総領事を経て、1928年(昭和3)、田中義一首相兼外相のもとで外務次官となった。同年6月に張作霖爆殺事件が起きて、田中内閣が倒れた後も、浜口雄幸内閣の幣原喜重郎外相のもとで引き続き次官を務めた。
1930年(昭和5)12月、イタリア大使となり、約2年務め、特命となった。
1932年(昭和7)9月、わが国は満州国を承認、1933年(昭和8)には国際連盟を脱退した。
1935年(昭和10)、外務省を退官した吉田は、翌年、広田弘毅内閣の外相候補に挙げられたが、軍部の反対により実現せず、イギリス大使を命ぜられ二年余にわたり在勤した。
1940年(昭和15)7月に第二次近衛文麿内閣が発足した。吉田は、ドイツ・イタリアとの同盟は対米関係の悪化を招くと反対し、近衛首相に進退を考慮するよう進言した。
新党自民党近衛内閣は日米交渉に努力を傾けるが、アメリカが要求している「中国からの撤兵、日独伊三国同盟の破棄」について陸軍の猛反対を受け、1941年(昭和16〕10月16日、総辞職した。
同月18日に発足した東条英機内閣は、12月8日、英米に宣戦を布告した。
吉田は、和平工作を始め、近衛、真崎甚三郎、若槻礼次郎らと戦争の早期収拾のため、宇垣一成擁立・小林躋造擁立工作に奔走したがいずれも失敗に終わった。
1945年(昭和20)2月、近衛は、敗戦が必至との上奏を行い、4月、近衛上奏文に関わったとして吉田は憲兵に逮捕された。吉田は近衛を陥れようとする取調べに断固として応じず、かえって和平の必要を説き、5月末、釈放された。鈴木貫太郎内閣は、8月14日、終戦の詔書を閣議決定し、翌15日正午、終戦の詔書がラジオ放送された。
政党再編から政界引退
1951年(昭和26)〜1967年(昭和42)
国葬講和条約締結後、吉田内閣の支持率は急落した。条約調印を前に鳩山一郎ら大物政治家たちの公職追放解除が行われ、反吉田と政界再編の動きを強めた。これに対して吉田は抜き打ち解散で対抗、第四次吉田内閣が発足したが、第15回国会の予算委員会において吉田自らの失言によりいわゆるバカヤロー解散を招いた。総選挙後、辛うじて第五次吉田内閣が成立したものの少数与党下で造船疑獄事件、警察法改正案の審議をめぐり国会運営が混乱し、保守陣営統一の必要性が痛感されるようになった。
当初、自由党と改進党の合同が模索されたが、党首問題で行き詰まり、反吉田系保守新党結成の動きが強まった。1954年(昭和29)11月24日、改進党と自由党鳩山派と日本自由党が合同して、鳩山を総裁とする日本民主党が誕生した。第20回国会冒頭、内閣不信任決議案が提出され、解散か総辞職かを迫られた吉田内閣は12月7日、ついに総辞職、長期政権に幕を閉じた。
続いて第一次鳩山内閣が成立し、鳩山ブームがわき起こったが、総選挙後、民主党は過半数を制することができず、少数与党の限界を露呈した。また、社会党左右両派の統一の動向に保守系両党は危機感をつのらせ、保守合同への機運が一段と高まった。1955年(昭和30)10月13日、社会党は統一され、民主・自由両党も党内調整を進め、同年11月15日、自由民主党が誕生した。社会党の統一と保守合同によって、二大政党対立の時代を迎えた。
総辞職後、大磯の自宅で悠々自適の生活を送っていた吉田は、自民党への参加を見合わせ、無所属議員となったが、党内に吉田派を形成し、鳩山内閣を攻撃、特に日ソ国交回復には強硬に反対した。鳩山引退後も吉田は自ら育てた後継者の池田勇人・佐藤栄作らを通じて、政界に影響を与え続けた。
1967年(昭和42)10月死去し(享年89歳)、佐藤首相のもと戦後初の国葬がとり行われた。
【吉田茂とその時代・特別展より】