第 一 部


第七章 日本の植民地の実態《朝鮮(三)》

 台湾同様・朝鮮の交通事情は最悪であった。鎖国政策と治安の乱れの為、道路らしい道路は皆無であり、交通は馬、徒歩、カゴに頼っていた。日本は日清戦争後の一八九九年、京釜鉄道株式会社による京仁線と、一九〇四年の京畿線の経営を始めた。日露戦争後の一九〇六年には統監府に鉄道管理局が置かれ、三千五百万円を投資して軍用鉄道の移管などを行い、統一経営を進めた。日韓併合時には合計距離一千キロを超えるまでになった。

 乗客数で見ると更によくわかる。一九一〇年に二十万人だった乗客は一九四四年には一億六百三十七万人となっている。(朝鮮交通史)貨物は九十万トンが国鉄三千百二十万トン、私鉄五百五十万トンである。道路、港湾、橋梁など、インフラ整備は総督府の最大の目的であり、朝鮮の人々は自給自足の生活から脱却し、開かれた近代社会を創成する事が出来た。当時の費用で三十億円という資金を投入した事は日本の財政を圧迫した。

  更に日本は民衆教育を推進した。明治維新の教訓から日本は殖民地での教育も内地と同様に実学教育による、国民一人ひとりの国民的素養・資質の向上こそ富国強兵の基礎と考えられていた。朝鮮人が最近になって「日帝は愚民政策をとった」等と発言してるが、当時の日本人は誰一人そんなバカな事を考えていなかった。

  総監府の朝鮮教育政策は一九一八年から「一視同仁」の観点から、差別・撤廃が唱えられ、内地と同様の教育制度が目指された。一九一六年から「三面(三村)一校」という教育普及政策が推進され一九二一年には目標を達成した。一九二九年からは「一面一校」政策になり一九三六年には目標を達成した。一九四三年には就学率は61パーセントで、四年後には義務教育を計画していたが、日本の敗戦で実現しなかった。(台湾では実施)基礎的教育に力を入れると同時に高等教育にも力を尽くした。

  一九二四年(大正十三年)に京城帝国大学が設立されている。その創立は台北帝大(一九三一年)や名古屋帝大(一九三九年)よりも早かった。日本は半島の文化と文物を研究し、保存した。現在韓国に残る多くの貴重な文化財は総監府によって保存されたものである。ハングルの使用も日清戦争により朝鮮に対する清の支配が終わった事により、ようやく公文書に復活した。 ハングルが全国民に教育されたのは併合後の一九一一年のことである。

  戦後の韓国人は日本が言語を破壊したと史実と反対の事を平気で言うが、ハングルを復活させたのは日本なのだ。日清戦争前の韓国は中国が恐ろしく独自の文字が持てなかったのだ。総監府は朝鮮半島内ですら普及していなかったハングルを唯一の言語とする訳にはいかず、日本語、朝鮮語を並行で教え韓国に文明開化をもたらす事に成功した。


つづく

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