第 一 部
第七章 日本の植民地の実態《満州(二)》
満州国建国
一九三三(昭和八)年一月二十日、満州国は帝政実施を声明し、満州帝国の成立を日本以外の七十一ヶ国に通告した。
満州国の成立(1932年9月)日満議定書調印式後の記念撮影。後方は関東軍首脳部日本は前年昭和七年、五・一五事件後、斉藤実挙国一致内閣が成立すると、衆議院が全会一致で満州国承認促進決議を行った。内田外相は「日本の行動は自衛である」「満州国の成立は中国内部の分離運動であり、日本の承認は九ヶ国条約の違反にならない」「例え国を焦土と化すも、満州国独立を擁護せん」と、いわゆる「焦土外交演説」を行った。日本は実質的な承認を議定書の調印という形で行った。ローマ教皇庁が承認すると枢軸国のイタリア、スペイン、ドイツ、が承認し、続いて北欧、東欧諸国が承認した。中華民国は乱立政権が続き、統一できないでいたが、南京政府(汪兆銘)は「日満華共同声明」を出し、大使の交換を行い、実質的な承認を行った。
では満州国は何を目指していたのであろうか、一言で言えば「アジアに於けるアメリカ合衆国」である。
満州は四千年来、中華世界の外にあったことから、多民族国家の歴史的経験があった。そこには豊富な資源と未開発な地域がたくさん残されていた。そういう諸民族統合の新興移民植民地であった。風土も開拓前のアメリカ大西部と似ており、「アジアのアメリカ」としての可能性を充分に持っていたのだ。「王道」という中華思想と「楽土」という仏教浄土思想、そして「民族協和」という多民族の共存共栄思想、さらに東洋と西洋の融和を、近代産業、近代文明の中で行って行く、このような理想郷を満州建国に求めていった。
満州建国当時の満州は「馬賊」の地であった。十九世紀までは原住民以外には漢民族の流刑に処せられた罪人、盗掘、盗採、密猟の流民や馬賊だけであった。 匪賊とは清国時代、封禁を破って満州に侵入した漢人のうち、集団を作って悪事を働いた者のことである。この匪賊が各地で無法を行い、誰も取締る事もない状態であった。新政府の最初の仕事は当然の事ながら、この匪賊の掃討であった。しかし匪賊討伐は以外にてこずった。何故ならば、昼は兵士、夜は匪賊という形態を持って掃討から逃れる者が多かった為でもあった。匪賊は降伏、帰順、反乱をくり返し地位を高め、努力を強くしていく事が慣例であった。張作霖などがその代表であった。
日本は関東軍が各地区長の要請により出兵し、武装集団を駆逐した。向かうところ敵なしの戦闘であったが、余りにも匪賊の数が多く持て余していた。そこで民生部警務司の下に警察制度が整備された。初代警務司長には甘粕正彦が就任し、警察の組織化が推進された。
昭和九年、執政溥儀が帝位につき、民主制から君主制に移行したことに伴い、それにふさわしい国家統治組織の根本原則として組織法を定めた。これは憲法に相当するもので、立法、司法、行政の三権が皇帝に帰属することを定めた。
日本は昭和十一年満州の独立国としての地位を確定する為、治外法権の撤廃、日本人の居住、課税に関する、日満条約を締結した。更に法整備が進められ、近代国家としての形が整えられた。経済面で最大の変革は通貨の安定であった。
中国という国は伝統的に、人間不信、政府不信の国である。現在でもアジア各地で中国人はその国の政府を信用していない。東南アジアのチャイナタウンには「金行」が軒を連ね、人々はその国の通貨を金に替え、タンス預金している。そのような中で満州では、満州中央銀行が設立され通貨が安定した。租税の徴収、治安の安定、通貨の安定が社会の安定をもたらし、日本の強力な後押しもあり、満州は「掠奪」の地から近代産業の希望の大地に変化してゆくのである。
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