第三章 明治初期の外交明治政府の最大の外交問題は、徳川幕府が結んでしまった不平等条約の改正にあった。
明治四年岩倉具視を全権大使にした使節団を欧米に送った。アメリカで条約の改正の交渉を行ってみたが相手にされず、ヨーロッパでは交渉を断念し、政治・経済・文化の視察に終止するしかなかった。日本が欧米に比べて、なにからなにまで遅れていることを痛感して帰国したのであった。しかし中国と朝鮮に対しては交渉を開始した。清国とは明治四年に対等な条約を結んだ。朝鮮は国交があったので新たな条約を結ぼうとしたがなかなか進展しなかった。朝鮮問題の最初のところなので少し詳しく見てみよう。
中学社会ではどの教科書でも日本が軍隊を送り強硬に条約の改正を迫ったと記述されている。だが、良く考えてみるとこの頃の日本の軍事力は朝鮮に対しそんなに優位を保っていたわけではない。中国と日本しか国交を持っていなかった朝鮮は鎖国を行っており、二度に渡って外国の介入を撃破しているのだ。李王朝はこの時大院君という国王が支配していた。日本を蛮国とみており清国以外の国は相手にしなかった。しかし経済的には破産状態であり、政権は分裂と内紛に明け暮れていた。身分制度もこの日本より徹底しており、硬直していた。ロシアの南下政策が進めばひとたまりもないことは火を見るより明らかであった。
日本は自国の防衛のため朝鮮を味方につけておく必要があった。西郷隆盛らに代表される「征韓論」が時沸き上がった。西郷は自分を使節団として送り込むことを主張した。自分が殺害されれば、それを名目に韓国に出兵でき、開国を迫ることができると考えたのだ。
この「征韓論」に対し大久保利通は死を覚悟して使節団の訪韓を阻止し、「富国」の必要性を説いた。どちらも譲らず対立したが西郷たち旧士族は政権から離れた。このことにより、士族の反乱が続出したが大規模なものではなかった。朝鮮ではこのとき政変が起こり大院君が失脚した。王妃の閔(ミン)一族が政権を握り、清王朝も日本との国交を許したのでようやく日朝修好条約(明治九年)が結ばれた。
日本が軍隊を送ったのは釜山の和館の接収の時(明治四年)のことであり、このときは日本は追い返されている。朝鮮問題がかたづいた明治九年士族の反乱も最後の時を迎えていた。鹿児島に戻った西郷を担ぎ出し「西南戦争」が勃発した(明治十年)。政府は徴兵によって兵を組織し、サムライ対平民の戦いが行われた。九州だけの局部戦で終結し、近代兵器の政府軍が勝利した。これ以降軍事的反乱は起こらなかった。
明治維新の第一段階はこの西南戦争で終わったといえる。武士は兵士の役割を平民の軍隊に譲り、階級としての特権を全て失った。しかし武士道は日本国民の共通した意識として受け継がれていった。これから文明開化と殖産の時代を迎えることになるが、少なくとも日本は朝鮮を軍事力だけでねじ伏せるようなことだけはしてこなかった。このあと朝鮮の人々が大挙して日本に留学してきたことを見ても当時の雰囲気は理解できると思われる。朝鮮との問題が本格化したのはこれからの事だ。