第 一 部
第二章 大航海時代日本の近代史を学ぶとき、東洋だけでなく、西洋の事情も考えなくてはならない。日本の近代化は「外圧」によってもたらされた。
植民地戦争の最終段階で東洋の最東部に位置するわが国にその荒波が押し寄せてきた。ロシアとアメリカが主たる国であった。ロシアは十九世紀に入って五大国と呼んでいた。アメリカはまだ植民地の対象であった。初期のスペインやオランダ、ポルトガルの植民地を奪い取り再分割の時代が始まった。弱肉強食の世界がそこにはあった。
ペリー堤督率いるアメリカの艦隊が浦賀沖に現れたとき(1953年)日本国中大騒ぎになった。日本国内には近代的防衛力が殆ど無かったから対応の仕方がなかったのだ。国内的には幕府の武力で十分であっても対外的な力は皆無であり、米国の開港要求に従わざるを得なかった。米国の目的は直接日本を植民地にしようというものではなかったが、中国に対して綿を輸出する大平洋ルートの拠点として日本の開港が求められていた。捕鯨の基地としても重要視されていたが、中国に対しての輸出競争に勝つことが最大の目的であった。幕府は江戸湾に砲台(お台場)を作り、韮山に反射炉(鋳鉄所)を作ったりしたが西欧列強の軍事力に対抗することはできなかった。
日本にとって幸運だったのは米国内で内戦(南北戦争)が起こったことである。アメリカはハリスを下田に送り込み開港させるとそれ以上の要求はしてこなかった。アメリカの中断政策は英・仏を勢いづかせ薩摩や長州との戦争が引き起こされた。勿論結果は火を見るより明らかであった。
ロシアも開港を迫ってきたが、下田沖で嵐に出会いディアナ号は駿河湾に沈んでしまった。この時芦田付に舟大工を集め日本で初めて洋式帆船が建造されその技術を学ぶことができた。このように艦隊を引き連れて要求を突き付け、力による外交を行うことを「砲艦外交」と言い、このことを非難する国はなかった。キリスト教の普及のためと称して宣教師を送り込み侵略の手引きをすることは常套手段であり、徳川幕府がキリスト教禁止令を発令したのは適切な事であった。
しかし、時代は侵略と近代化を引き連れて日本を襲ってきたのだ。ここで日本を救ったのは、新しい学問を学び、世界の情勢を手にいれた若い維新の志士たちであったのだ。中国に対するイギリスのアヘン戦争は西欧列強の侵略の凄まじさを見せつけた。このことは日本国内の戦争に明け暮れていては取り返しのつかない事態を迎えることを教えていた。天皇陛下を中心とした日本の国体が長い歴史の中で生き続けていたことが国論の統一と維新の成功に繋がっていた。江戸城の引き渡しが無血で行われ、大政奉還も混乱なく行われたことは日本にとって幸運であった。このことの意味を良く学ばなければならない。
すでに日本では成熟した政治が徳川時代の長い官僚主義によって培われてきたことを示している。西洋の革命との違いがここにある。フランスやロシアの革命では国王はギロチンの露と消え、国民の血が川のように流されたのだ。
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