風 たより
〜 第 8 回 〜
平成22年6月9日
風と雲とを友にして
天空高く龍は昇る
「吉田松陰」義の精神
幕末の志士、吉田松陰がその門弟入江杉蔵に宛てた書中に、次のような言葉が残されています。
「 死求めもせず 死辞しもせず
獄にあっては獄で出来ることをし
出ては出て出来ることをする時を云わず 勢いを云わず
只 出来ることをして
猶行き当たれば
又 獄也とも 首の座也とも行くところに行く 」
安政の大獄で死罪となり、三十年の短い生涯を閉じた松蔭の後半期は、まぎれもなくこの言葉どおりの生き方を貫いた人生でした。
松蔭は、正しいと信ずることはみじんも曲げません。常に正しいと信ずることを主張し実行します。しかもそうした松蔭の、正しいと信ずることを実行する義勇の精神は、獄中にあっても変わりません。
松蔭は、踏海の策に敗れて入獄します。ところが松蔭は、それでもなお尊皇を説き、攘夷を論じ、憂国の至情を披瀝しては、獄卒の目からさえも涙を流さしめているのです。松蔭には、深き国史の研究と明確なる国体の認識による、確かな天皇観がありました。その上、欧米列強の脅威から、日本を救わんとする、烈々たる愛国心があります。獄にあってもなお変わることのない、環境などに左右されぬ精神は、こうした堅固な志操によって支えられていたのでしょう。
松蔭が企画した踏海の策とは、下田湊に碇泊中の米艦黒船に、国禁を犯して密かに捨じ、国外渡航を果たして、敵情を探索してくることにありました。松蔭は黒船来航に鋭く反応したのです。そして、無謀と知りながらも、なおそれでも行動せずにはいられない、憂国の情熱の赴くところに従って、敢えて踏海の策を実行するのです。松蔭はこのときの胸中を、歌に託して次のごとく詠じています。
「 かくすればかくなるものと知りながら 已むに已まれぬ大和魂 」
米艦ペリーに拒絶され、惜しくも踏海の策に敗れた松蔭は、下田の獄から江戸に檻送された後、長州萩の野山獄に監禁されることになります。すると、ここでも松蔭はまた、正しいと信じることを実行する義勇の精神を発揮します。囚人教育にのりだしです。
野山獄には十一名の囚人がいました。出獄の希望をなくした者たちばかりで生気がありません。松蔭はそうした者たちと、互いが教え習うという勉強会を始め、たちまち暗さの漂う獄中を、学校のごとき様相に一変させてしまいます。しかも、松蔭の与えた影響は囚人たちばかりにとどまりません。松蔭の始めた講義を、初めのうちは警戒していた司獄や獄卒までもが、その内容を立ち聞きしているうちに、次々と松蔭の門弟となってしまうのです。
中でも、福川犀之助という松蔭よりやや年長の司獄は、心底より松蔭に信服していたのでしょう。貫助という弟を連れてきて、ひそかにこれも入門させているのです。松蔭には、教育家としての才能があったのでしょう。出獄を許された後の松蔭が、松下村塾を開き、多くの若者たちを、維新回天の英傑に育て上げてしまうという、天才的な能力を開花させますが、そうしたすぐれた指導力を、松蔭はすでに野山獄においても発揮していたわけなのでした。
乃木大将が座右の銘にしていたといわれる「士規七則」も、松蔭はこの野山獄において書き上げています。「士規七則」とは、松下村塾の指導理念とのいうべき書で、ここには松蔭が教育上もっとも重視していた事柄が書き述べられています。それを見ますと、正しいと信ずることを実行する義勇の精神を、松蔭は何より重んじていたことがわかります。正義と勇気について次のように述べているのです。
「 士の道は、義より大なるはなく、義は勇に因りて行われ、勇は義に囚りて長ず 」
言うまでもなく、教育の根本は道義の育成にあります。中でも正義と勇気は、防衛上の観点からも極めて重要な徳目です。教育勅語の中にも、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉仕シ」とありますように、義勇の精神は、国の安全を守るためにはかかせません。殊に、一歩誤れば、欧米列強の植民地と化してしまう脅威にさらされた、幕末という激動の時代にあっては、尚更正義と勇気はかかせぬ精神であった筈です。未曾有の国難を前に、戦う勇気をなくしてしまえば、自ずと国家は崩壊してしまうからです。
松蔭は、欧米列強の植民地支配を、文明国にあるまじき蛮行と見ていました。 確かに侵略と弱肉強食を肯定する浅薄なる思想をもって、他国を侵し他民族を支配することは道義にもとります。国を守るためには、いかなる時代であっても、こうした外威に屈せぬ正しい心と、その正しい心を実行する勇気が必要です。松蔭が松下村塾を開き、正義と勇気を重視して、義勇の育成に心血を注いだのはそのためでした。
松蔭は、太平に慣れた日本人が、国を守る気概を失うことを何よりも危惧してました。 平和と繁栄に酔い痴れて、すっかり危機感を麻痺してしまった今日こそ、松蔭の精神は活かしていきたいものです。(美濃の臥龍)