風 たより
〜 第 9 回 〜

平成22年7月26日


風はかたりかける

  時にははげしく  時にはやさしく

 風はかたりかける 

    いにしえの歴史の真実を ……………

  風と雲とを友にして
  
    天空高く龍は昇る




あまたなる人失いつ崖の下 海深くして青く澄みわたる

 この歌は、戦後六十年の節目の年にサイパンを訪問された今上陛下の御製であります。陛下はこのとき、日本政府が建立した「中部太平洋戦没者の日」に供花、拝礼された後、バンザイクリフにお立ちになられ眼下の海に黙礼されました。

 ここは、「天皇陛下万歳」と叫んで多くの在留民が身を投げた場所です。「あまたなる人失いつ崖の下」とは、このときの悲劇の様子を詠まれていらっしゃるのです。

 サイパンは、日本に最も近い常夏の島として、高人気のリゾート地ですが、かつてここは日米両軍が激戦を演じた戦場でした。日本はこの小さな島で、実に4万1000名の将兵と1万人の在留民を失っています。今回はその戦史について掻い摘んで述べてみたいと思います。

 日本軍が守備するサイパンに、突如米軍が百隻以上の大艦隊で侵攻してきたのは今次大戦末期、昭和19年年6月13日のことでした。

 このとき、物量を誇る米軍は、上陸に先立って延べ1千機の艦載機による猛爆撃と、綬8万発にものぼる艦砲射撃を行いました。聞くとことによると、この艦砲射撃の凄まじさは、上空に昇った砲煙によって、サイパンの天候が数日間変わってしまったほどの威力であったそうです。

 地上の建造物という建造物は、この猛烈な砲爆撃によってほぼ壊滅してしまいます。日本軍の150機の航空機も滑走路も破壊されてしまいました。重火器の大半もまた破壊されています。日本軍は戦う以前に裸同然にされてしまったようなものでした。

 米軍は、こうした熾烈な攻撃を執拗につづけた後、6月15日、535隻の艦艇の支援を受けて、6万8000人の大部隊の上陸を開始します。

 これに対し、日本軍も斉藤義次中将指揮の陸軍部隊と、南雲忠一中将指揮の海軍部隊が、死力を尽くして反撃します。水際において、上陸してくる米軍との間で、激しい攻防戦が展開されました。しかし物量に優る米軍の圧倒的火力の前に、日本軍は各所においては相当な戦果をおさめながらも上陸を阻止することができません。

 一方6月19日、20日の2日間。サイパン沖の海上においては、日米の艦隊決戦が行われました。「マリアナ沖海戦」です。日本の空母機動隊は、起死回生を賭して乾坤一擲の勝負に打って出たのです。しかし、この作戦(「あ号作戦」)を事前に察知していた米海軍は、日本海軍をはるかに上回る大艦隊で待ち構えていました。その結果、わずか2日間の海戦で大敗を喫し、一年かけて養成してきた空母機動動艦隊は壊滅してしまいます。

 509機の艦載機と三隻の空母を失い、四隻の空母、一隻の戦艦、一隻の重巡などを中小破した日本海軍は、これによってサイパン救援を断念してしまいます。しかもこの後、大本営もサイパン、テニアン、グァムの放棄を決定してしまいます。しかし、そうしたことなど知る由もないサイパンの将兵はなお激戦を展開しています。在留民も抵抗をつづけています。しかし制海権と制空権を喪失し、一艦一機の掩護も得られぬ日本軍は、戦局の好転を図ることができず、徐々にその数を減らしながら、北へ北へと追い上げられていきます。そして、24日間の激戦の末、孤立無援の絶島と化したるサイパンは、ついに力尽きて
玉砕します。斉藤・南雲朗両中将は自決しました。

 昭和19年7月9日、米軍はサイパン占領を宣言します。ところが、天皇陛下が黙礼されたバンザイクリフでは、この後に新たな悲劇が発生しています。米国の掃討戦に逃げ場を失った多くの在留民が、この一帯の海や山で次々と身を投げ亡くなっているのです。

 マッピ山の240メートルの断崖から谷底めがけて身を投げた人々は1500人。バンザイクリフの崖の上から、海に向って身を投げた人々は凡そ2000人にのぼると言われています。しかもこのような、悲壮な最期を遂げた在留民は、幼児を抱いた母親や、女性、老人、子供らの非力な人々ばかりでした。サイパンが米軍の手に陥落した後も、遊軍となって最後まで戦い抜いた中将の目撃談があります。田中徳祐陸軍中将です。

 それによると、戦車と海兵隊に包囲されて、バンザイクリフからバナデル飛行場に追いまくられた在留民のうち、女性だけが全裸で他所へ運び出され、残った老人と子供たちは滑走路に追い込まれ、ガソリンに火をつけて焼き殺されたそうです。逃げまどう者たちを蹴りまくり、銃で押しまくりして、火焔と煙の中に突き飛ばす。正視することのできない光景を目撃した中将は、軍曹に弾のあるかぎり撃ちつづけることを命じたそうです。このときほど中将は敵を憎んだことはなかったと言っています。

 バナデル飛行場というのは、マッピ山の断崖下にありました。従って、マッピ山の洞窟に避難していた在留民の中にも、おそらくこうした光景を目撃した人々もいた筈です。あるいは同様の蛮行を伝え聞いた人々も多かったことでしょう。

 私はバンザイクリフ一帯のジャングルや洞窟に退避していた婦女子や老人たちの、生きる道を奪ってしまった最大の要因は、こうした米兵の狂気にあったと考えています。人と人とが殺し合う戦場にあっては犠牲はつきものでしょう。ですが、このような人道に反する蛮行さえ防げていれば、これほど多くの在留民が亡くなることはなかった筈です。その点悔やまれてなりません。 

(美濃の臥龍)

続く