日本精神の
回復・復興に関する
教育課程の趣意
H15/05/24
日本青年社
総本部教導委員会

 世界の国々では修身教育に代わる物として宗教に起因する教育が大半を占めております。

そしてそれぞれの宗教には教義・教典があり中には天地の創造から始まる物や、苦行による悟りを示す物が多く、ほとんどが一神教、つまり一人の偉大な悟リ人(神や仏)の「教え」に沿う生き方を論すものが多い事が分かります。

 キリスト教の聖書、イスラム教のコーラン、釈迦の仏典、孔子の論語などであります。

 それらは世界の長い歴史の中で、それぞれの国に於ける、時の指導者の意向によって定められる傾向が強く、教えである以前に国のまとめ事として活用された向きがあり、体制の変化に伴い国民の意思とは無関係に改宗を余儀なくされた事も多く伝えられております。

 そうした事実は陸続きの国に於いて常に主導権と国境線を争ってきた大陸の覇権をかけた争いの結果であり、避けがたい歴史であると同時に多種民族の混合する社会を取リまとめるにあたり、必然性から派生した哲学といっても過言ではあリません。

 世界の民族性をあらわす哲学は西洋哲学と東洋哲学との大きく二つに分けられます。

 西洋哲学の根源は「自らの権益を守り、増やす為にはいかにあるべきか」というものであり、対する東洋哲学は「この世に生を受け、人のためにいかにあるべきか」というものであります。

 我が国は紛れもなく後者であると同時に同し民族が永い間、血族関係を保ち、他国の侵略や統治を受けずに生活を営んできた為、万物に慈愛をもって接し、乱世を切り抜ける為に「維新」という行動をとり、原点に立ち返リ、元の姿を複元する作業を常としてきました。

 そうした生き方は、人としての「在り方」を希求し、「らしさ」として体現してきた事にも明らかであります。

  「在り方」や「らしさ」を求める生き方の対象は大勢の中の自己にあり、自己の研鑽のの不足を「恥」としてきた民族だからこそ、より高度な人格形成を築いてきたのであります。

 然るに教義や教典を必要とせずに自己の中で道義や道徳に照らし合わせ、自問自答を繰り返し、もって社会観を見出し、万物に生命観を抱き、森羅万象を恵みとして、更にそれらを八百万の神々として崇めてきたのであります。

  男が男らしく、女が女らしく、上司が上司らしい振る舞いを求められ、部下が部下らしく分とわきまえをもって従うなど、「らしさ」は同時に「在リ方」てあり、その反対も正であります。

  それを男尊女卑や封建的と捉える輩は不平等を唱えますが、さにあらず、お互いの価値観に「らしさ」を心掛ける事により、双方の在り方を尊厳として認め、尚且つ阿吽の呼吸なかで風のように感じあうことは、平等という価値観を超越した理想であり、日本精神の根源であります。

 肝要なのは自分のおかれた環境や役割を自然体の中からこなし、且つ行なわずにいられない境地に立脚する事であります。

 更に我が国の民族性で特筆すべきは外国の宗教(教育)のように「天地創造」や「苦行・荒行」という教えではなく、万物を「生む」という観念にある事であります。

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