北方領土返還運動を大胆に前進させよ
平成24年4月20日
3月1日、ロシアの次の大統領に決定したプーチン氏は、世界中のメディア記者を前にして「北方領土問題決着」に言及した。このことは日ロ間の外交交渉が行き詰っている中で大いなる光明をわが国に与えたことを指している。
この機を逃さず、閉ざされかかった扉をこじあけ、北方領土返還を現実性のあるものにしなければならない。
【日本青年社が拓いた返還への道】
平成21年3月17日、日本青年社訪ロ団一行31名は、日ロ両国間で膠着状態に陥っている領土返還交渉を打破するため、空路ロシアに出発した。この訪ロ団がなぜ結成され、何を目的にしていたのかを明らかにすることにより、現在のプーチン氏の言動、ロシア政府の動きが理解できるであろう。ロシア政府関係者から「日ロ間で膠着状態に陥っている領土返還交渉を進めるためにロシアに来て欲しい」との打診を受けたのは平成18年であり、この時の大統領はプーチン氏であった。この打診は日本青年社の会長に対してのものであった。なぜならば北方領土返還運動において圧倒的存在感を示し、日本屈指の運動を展開していたのが日本青年社であることは海外メデァの知る事実であり、当然のことながらロシア政府も熟知していたのであった。
ロシア政府関係者からの申し入れは日本青年社にとって驚天動地の出来事であった。しかし、このことはロシアが北方領土の返還の意志を示したことに他ならなかった。日本青年社は水面下で多くの知識人や北海道道東地区の漁業関係者の声を聞き会議を重ねていった。
平成20年日本青年社会長が駐日ロシア大使公邸において大使と昼食を共にしながら領土問題解決に向けた長時間にわたる意見交換が行われた。
その後、日本青年社ロシア訪問団にビザを発給するという連絡があり、同年9月10日にロシア政府から正式に招請状が届いた。この招請状に対し、日本青年社は翌年の21年1月の全国代表者・役員会議において訪ロの方針を決定し、訪ロ団の結成を行った。同3月15日国士舘大学国際会議室においてロシア訪問団壮行会を開き、固い決意の下に3月17日にロシアに向けて成田を飛び立ったのである。
日本青年社はこのとき大きな決断をしたのである。その決断は北方領土返還を現実なものにするという、日本国民の悲願を実現するということを自らの任務にしたというものであった。日本青年社を含めて、それまでの返還運動は日本の国内において街宣活動やデモ行進を行い、一方的に「還せ、北方領土」と叫ぶしか出来なかった。 その中で最も大規模で過激な運動は日本青年社による「二・七北方領土奪還運動」に他ならなかった。
この運動は政府が「北方領土の日」と定めた以降、毎年行われ1500名もの同志が徒歩デモによりソ連大使館に徹底した抗議を行った。これを国内メデァは無視したが、ニューヨークタイムズの一面を飾るニュースとして世界中が注目した。しかし現実としては北方領土返還の道は閉ざされたままであった。北海道の漁民は領海侵犯の名の下にロシア兵に射殺され続けていた。わが国に正義があり、領有権があるにもかかわらず領土が不法占領され、国民が殺害されている不条理な現実を直視することなしに問題の解決はない。日ロ両国で行き詰まっている領土交渉の扉を開くことに我々は目標を定め、行動する「右翼」として全力を注いでゆく以外に道はないと決意したのであった。
【日本青年社訪ロ団の切り拓いた地平】
我々訪ロ団は現在膠着状態に陥っている日ロ両国の交渉を前に進めることを目的にした。北方領土が日本の領土であることは明白であり。このことは断固として守り抜く、しかし67年間ロシア(かつてはソ連)が不法占拠と言う形で実効支配していることも事実である。領土問題では実効支配が常に重要な要素になる。67年という年月も重要である。これら全てを考え合わせると「一括返還」だけを要求することは逆に実効支配の固定化につながりかねない。なぜならば領土紛争の歴史を見れば判るように正義は必ずしも勝者にはならないことを示している。それゆえ日本青年社の訪ロ団はクレムリン、商工会議所、下院議員会館、外務省などを訪問し、政府要人と意見交換を行い、更にはサンクトペテルブルグ国立大学で学生と対話集会を行い友好を深めた。
この訪ロにおいて最大の成果は、日本青年社がロシア政府との間において民間外交窓口を確立したことと領土問題の解決を政府要人と約束したことである。元より領土交渉は政府間の交渉であり、我々民間人が介入すべきものではない。我々の立場は日本国民として日本の国益を求めていくことに尽きるのだ。我々は3年前の訪ロによってはっきりとロシア政府の意志を確信し、新たな局面の展開が必ず訪れることを予想していた。そしてそれは日本政府ではなく、ロシア政府によってもたらされたであろうと考えられた。なぜかというならば我々日本青年社の訪ロを提案した時の大統領はプーチン氏であり、プーチン氏の意志の下に日本青年社の訪ロが実現したことを考えれば自ずと結論は出てくるのではないか。一時期メドベージェフ氏に大統領が変わったが首相はプーチン氏であり、国家意志が何ら変わるものでないことは、世界中の人々の認めるところであり、それは事実であった。
【日本の領土返還交渉の問題点】
北方領土返還に関して日本国民の全てが一致した意志を持っていると思われる。しかしその熱意は千差万別であり、戦後の日本人の領土意識の低下は国家そのものへの意識変化を生み出してしまっている。何が何でも領土はとり返すという強い意志を持った日本人は一体どの程度存在するのであろうか。心細い思いをしているのは我々だけではないと願うだけである。
そもそも日本とロシアの間で領土問題が発生し、その決着がついたのは安政元年(1854)に結ばれた日露和親条約によってであった。ロシアの代表はプチャーチン提督であり、日本の代表は勘定奉行・川路聖謨(としあきら)であった。幕府の方針は開国拒否であったので川路はプチャーチンの恫喝に一歩も引かず、開国拒否を貫いた。しかし米国から来たペリーに対して江戸城の幕閣は耐えきれず日米和親条約を結んでしまった。こうなるとロシアだけを拒否する訳にはいかず、場所を長崎から下田に移して交渉に入ったのである。
世界各地を巡っていたプチャーチン提督は川路との交渉を重ねているうちに尊敬の念を持つようになった。それは日本の武士道に対してであり、川路個人の聡明さに対してでもあった。提督の随行員ゴンチャロフは「日本渡航記」の中で「この川路を私達は皆好いていた。(中略)
川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法を持って、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかった。(中略)
「明智はどこへ行っても同じである。民族、服装、言語、宗教が違い、人生観までも違っていても、聡明な人々の間には共通の特徴がある」と書いている。
川路は北方領土を四島として一歩も譲らず日露和親条約を結んだ。しかしこのとき安政大地震が起こり、プチャーチンが乗ってきたディアナ号が難破し駿河湾で沈没した。そのとき沿岸の漁民は自宅が津波で全滅しているのもかかわらず、小舟で救助に向かい、四百数十名、一人の死者も出さずに救い出したのである。更に西伊豆戸田に住居を建てわが国初の西洋式帆船「戸田号」を造り、全員を無事にロシアに送り届けたのである。このような徳川幕府の最後の外交官川路聖謨はロシア人を驚嘆させた外交交渉術と日本人の徳の深さを示し、日ロ友好の礎を築き明治政府に引き渡したのであった。彼は幕臣として徳川家に忠誠を尽くし、江戸城引渡しを聞くと自刃した。最後まで武士道を貫き通した人物であった。
昭和20年9月3日ソ連によって不法占拠された北方領土は何度か返還される機会があった。最初は昭和31年に鳩山内閣による、日ソ平和条約締結交渉時だった。このとき二島返還が明文化されていたが不調に終ってしまった。その後ソ連が崩壊し、新生ロシアとなりエリツィン、橋本会談など具体的な交渉が行われたが、何れも不調に終っている。森元首相は二島先行返還の方針で交渉し、前進したかに見えたが小泉内閣の田中外相により潰されてしまう。交渉の最大のネックは「四島一括」であった。日本側の主張は四島の帰属が日本にあることをロシア政府が認めれば返還の時期、様態、条件は柔軟に対応するという新方針を打ち出していた。しかし交渉が進むとこれに対し「弱腰外交」などと反対を唱えだす人々が必ず出現し潰しにかかった。
その最大の勢力は「右翼」に他ならなかった。かつての日本青年社がその一員であったこともまた事実である。しかし日本青年社は年前の訪ロを契機に大転換を行ったのである。その時の決意を「ルビコン川を渡った」と雑誌アエラに語ったのだ。
今回次期ロシア大統領プーチン氏が日本との領土問題の解決に積極的姿勢を見せたことは恐らく最後の機会になるであろう。武士道精神を重んじるプーチン氏が日本青年社の誠意に答えてくれたと考えるのは穿った見方であろうか。いずれにしても日本青年社の方針は明瞭である。実効支配が67年も続いた現在、日ロ交渉がいつまでも平行線を辿っているならば領土問題は解決しない。日ロ両国政府がお互いに国民感情を和らげながら、そして妥協点を見出しながら、それが段階的なものであっても領土返還を実現させなくてはならない。これこそが現実的な道であり、そうすることによって豊かな海洋資源と漁民の安全確保することこそわが国の国益になるであろう。
原理主義的な「四島一括返還」を唱え、交渉を挫折に追い込む勢力に対しては断固反対しなければならない。なぜならば実効支配がこれ以上続くならば北方領土は永遠にロシア領として固定化されてしまうからである。その証左に中国政府が尖閣諸島に巡視活動を最近開始した理由を「実効支配が五十年続くと国際法の判断で尖閣諸島が日本の領土として定着しかねない」と言っているように領土問題では実効支配の年数が重要な意味を持つのだ。
多くの保守派の人々が「四島一括返還」の旗を下ろすなと言っていることは我々も知っている。その人々が「返還反対派」だとは思わない。しかし「一括でなければダメだ。」と主張することが返還を遅らせ、最終的には返還を不可能にしてしまうことを理解すべきであると思う。
我々は尖閣諸島を27間実効支配し、中国から守り抜いてきた。そして今、ロシアから北方領土を還させようと全力で取り組んでいる。口先だけではなく、行動で領土問題を解決しようではないか。
日本青年社は運動家の集団である。