日本の戦後外交史として北方領土を再考する

平成13年04月20日



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 さる3月25日にロシア・イルクーツクで行われた日ロ首脳会談において、両首脳は「平和条約締結後に歯舞諸島と色丹島を日本に引き渡す」とした1956年(昭和31)の日ソ共同宣言について、「条約交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」と位置づけ、共同声明に盛り込んだ。また、プーチン大統領は会談の中で、今後、在日米軍の存在を領土交渉の障害としないことを示唆する発言を行った。

 ここで、新めて北方領土に関する経過を検討してみたいと思う。


「北方領土の定義」

 そもそも政府の言う北方領土とはどこなのか、又、その根拠は何か。サンフランシスコ会談で、日本の吉田全権は歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本領土だった事実について会議参加者の注意を喚起した。

 「千島列島および南樺太の地域は、日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張は承伏しかねます。
  日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんら意義を挿まなかったのであります。ただ択捉以北の北千島列島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。
 1875年5月7日、日露両国政府は平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島列島は日本領とすることに話合いをつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計ったのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズベルト・アメリカ合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で日本領となったのであります。千島列島および樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。また日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島および歯舞群島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。」



 つまり日本政府としてはサンフランシスコ平和条約第二条(C)項「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対する全ての権利、権限及び請求権を放棄する」の中に日本政府の主張する北方領土に含まれないということである。そしてまた、平和条約によって日本が放棄した千島列島と南樺太は、国際法律上どこに帰属するかはいまなお未定であるということである。

 なおかつ、サンフランシスコで開催された対日平和会議には、日本を含め52カ国が参加したが、このうち49カ国が平和条約に調印、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアの三国は調印を拒否した。したがって、この平和条約の条文はソ連には適用されないし、千島列島、南樺太などの放棄は明らかでも、ソ連に対してではなく、あくまで連合国に対してのものであり、その帰属は連合国で決定すべきものである。

 しかし東西冷戦の中での米ソ関係、日ソ関係、日米関係という形の中で、1956年日ソ共同宣言調印となった。

 そして今回の日ロ会談において「条約交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書」と位置づけたわけである。 今後機会を見て外交史上の北方領土問題を検証して行こうと思う。



1993(平5)東京宣言


細川首相とエリツィン大統領との間で発表。北方領土を明記したうえで「(領土問題を)両国間で過去に合意のうえ作成された諸文書および法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結する」とした。


1997(平9)クラスノヤルスク合意


橋本首相とエリツィン大統領が「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するようお互いに全力を尽くす」ことで合意。


1998(平10)川奈提案

橋本首相がエリツィン大統領に口頭で、北方四島の北に国境線を引き、四島の帰属を画定すれば当面はロシアに施政権返還を求めない、と提案。大統領は同年、この提案を拒否。


1998(平10)モスクワ提案


小渕首相とエリツィン大統領が会談、2000年中の平和条約締結に向けて両政府に交渉加速を指示した。ロシア側からは平和条約とは別に北方領土返還を将来に先送りした「中間条約」を締結する案が非公式に示された。