アフガニスタン難民支授活動報告
平成13年10月27日〜11月3日総本部国際局長:千葉秀次
平成13年9月11日、米国のニューヨークで起こった貿易センタービル(通称ツインタワービル)同時テロは世界を震撼させました。
米国は直ちに「テロ撲減」を宣言するとともに国際社会に軍事行動の賛意と協力を要請しました。
日本政府は、この後に及んでも国際社会の常識を喪失したかのような空転国会に終始していましたが、私ども日本青年杜はこの凄惨なテロ事件に対し急遽役員会議を開催して対応を協議、ホームページを通して独自見解を発表しました。
同10月8日、タリバン政権下のアフガニスタンに米英による軍事攻撃が開始されたことから、多くの罪なきアフガニスタン人が難民となって周辺諸国に流出が始まりました。このような事態が起こることは十分予測されていたことですが、私たちは国際社会の一員である日本人として、直ちにアフガニスタン難民支援義勇隊派遺を決定、選抜された勇士が難民支緩のための義援金,医薬品・食料・水・衣料などの救援物資を取り揃えて10月27日、第1次支援隊として成田空港を飛び立ちました。
現地では日本の政府関係者を始め一人の日本人の姿も見つけることは出来なかったことは誠に残念であり、日本人として大変空しいことでしたが、義勇隊は難民キャンプに入境して必死の支援活動を終え11月3日無事に帰国しました。
以下は、派遣隊員の責任者が日本を出発してから帰国するまでを記した日記と、西川二男・綿貫浩が現地でフィルムにおさめた難民キャンプの実情を公開します。
なお、現地では私たちがカメラを向けることによって、難民が暴徒化する危険に遭遇したり、無法地帯となっている地域では全く写真撮影が出来なかったことをお断りしておきます。
日本青年社アフガニスタン難民支援活動日記
平成13年10月27日〜11月3日迄8日間(機内2泊)
《10月27日〈土〉》 私たちアフガニスタン難民支援義勇隊総勢9名は本日午後3時成田空港発のパキスタン航空で出発する。
私ども日本青年社のHPをご覧の方々にアフガニスタン難民の苦しみや生活ぶりを少しでも分かっていただくために今日から11月3日の帰国までの8日間の旅を、なれない筆をもって私なりに日記を書いてみる。 日本時間
11:40成由空潜に到着、カウンターロビーには日本青年社の同志が大勢見送りにきている。
いつも顔を合わせている同志と記念写真を撮り、しばしの談笑する 13:30カラチ(パキスタン)行きの搭乗手続きのため集合場所に入る。
私は今まで何度か海外に出かけているが、今回の旅はいつもと違う、今から日本と別れるのかと思うとだんだん緊張してくる。 15:00パキスタン航空機が成田空港を離陸。私の気持ちはすでにパキスタンだ。 19:35マニラ空港に到着、日本とフィリピンとは1時間の時差があるので現地時間は午後6時35分だ。
マニラ空港では飛行機への給油、整備などのため1時間30分の時間調整があった。空港内で30分のティータイムをとり一行は再び同機に乗り込む、これからは全員が苦楽生死をともにしていくため常に団体行動だ。 21:00フィリピン時間午後8時、マニラ空港からカラチに向けて飛び立つ、成田でもそうだったが停機中の機内が異状に暑い。それにしてもマニラからパキスタンに向かうフィリピン人乗客が多いのにはビックリした。一体カラチに何をしに行くのだろう。
日本時10月28日午前4:17分(カラチ時間午前0時17分)カラチに到着、14時間の長い空の旅であった。
カラチ空港で早速トラブル発生、私たちだけの荷物や物資が出てこない。係員に聞いても分からず出てこない。私たちの執拗な抗議でやっと出てきた。出てこなかった理由は私たちの荷物だけおろし忘れたという。1時間以上も忘れていたなんて、全く信じられない。
カラチの飛行場はこじんまりしているが奇麗だった。ペシャワール行きに乗り換えるための時間調整からカラチ市内のシェラトンホテルで休息をとる。カラチ時間午前2時〈日本時間午前6時〉シャワーを浴びてから日本へ手紙を書き仮眠をとるためベットに入る。同室の中井氏はすでに熟睡していた。午前3時就寝。※ 時差4時間、明日からはパキスタン時間で書く。 《10月28日(日)》快晴 パキスタン
時間
8:00午前8時起床、朝食後昨日に続いて手紙を書く。ホテルの前のスーパーで着替えの民族衣装を買ったが少し高く買ってしまったようだ。18ドルだからまぁーいいか、本当は13ドルぐらいのものらしい。 12:00
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15:00午後12時、ロビーに集合、午後2時40分の飛行機でペシャワールに向かう。
午後3時50分、ケッタに到着、辺りは荒涼として赤土の荒れ地が延々と続いている。この辺りは軍事基地の施設として使用しているため、軍隊の警備が厳しく周りにはトーチカとか戦車、戦闘機、対空砲などがあり、私はとうとう危険なところまで来たと言う実感が沸いてきた。ここは国境のすぐ近くの飛行場であり激戦地の近くでもあるらしい。
17:00飛行機は1時間の時間調整の後、再び飛び立つ、眼下には荒れ果てた赤土と不毛の山々が連なる以外何もない見えない。日本のテレビニュースで見るのと同じ風景だ。
ただ今パキスタン時間は午後5時、日本だと午後9時。 18:50今、無気味な山々が延々と続く上を飛んでいる。午後6時50分、ペシャワールに到着した。ペシャワール空港はカラチとは違いすごい人、人、人ですごい。その中には、荷物を盗もうとする者、荷物を運んだフリをして金をせびる者たちなどが多くいると言う、一時も油断はできない。
いよいよ危険な所、無法地帯にきたなと感じさせる土地だ,ホテルはシラズインホテル、ここもかなり怪しいホテルだ。勇気を出し気を引き締めて行こう。
タ食後、明日からの打ち合わせをする。午後11時就寝。《10月29日(月)》快晴 7:30午前7時30分起床、朝食後に難民管理事務所に向かうがペシャワールの街はひどいものだ。
殺伐とした景色が続く街のあちこちで機間銃を持った兵隊や警官がごろごろいる。市民の目つきの殺気だっているので私たちは緊張感で一杯だ。
ペシャワールの街 14:15
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21:00私たちは、赤十字の近くまで行ったが難民が群集となって赤十字の前で助けを求めているため、中に入れずにハイトワパードの難民センターに行き交渉する、ここで入境許可書を貰うとこんどは古い難民キャンプの横にある警察でスタンプを押して貰う。
午後2時15分、難民キャンプ前の橋の上で写真を撮ったがすぐに大勢の子供たちが寄ってきた。
一度ホテルに戻って昼食をとってから、アフガニスタンの国境近くにあるシャムシャトウダワルワークの難民キヤンプに向かう。途中にある古い難民キャンプの村が続く家は煉瓦と土壁でできている。私たち日本人には想像のできない家だ。
でもさすがに逞しく、街道筋には難民たちが店を連ねている。店には横流し物資や野菜、薬、衣料、車の部品、日用雑貨、肉屋など何でもある。途中の田園地帯を過ぎるとレンガ工場地帯が現れた。とはいえ、とても工場とはいえるようなものではない、露天掘りの粗末な釜と煙突が連なっている。
目的の難民キャンプに到着、子供たちと一緒に写真を撮る、キャンプの学校は今建築中とのことから現在はテントの中で授業している。学校には420人の子供がいる。
男子200人、女子220人とのこと、私たちは校長先生と明日の支援物資引き渡しの打ち合わせを済ませ、その帰りに足りない物資を揃えるために、キッサコワニとサラパパと言うバザールに買い出しに立ち寄った。
ここで文具、子供用靴、靴下、サッカーボールなどを調達した。この街は決して豊かとは思えないが、人の多さと活気があることには驚いた。昨日ケッタでバスが爆破さらたとのことから街の警戒は大変厳しい。
それでも今は軍隊の施設となっている200年前の城の前で写真を撮った。目の前の路上に倒れている人がいる、大塚さんが水を飲ませたが自分でのむ気力もない。バスの運転手もほっておけと言う。行き交う人たちも慣れているのか皆冷たく無視して通り過ぎていく。私たちは何とかしようとしたが手のほどこしようがなかった。
ホテルに戻り一休みしてから外で夕食をとり帰りにわりかし危険の少ないホテル近くを歩いて見た。午後9時ホテルに戻る。
25:10日本時間は30日、午前1時10分だ、今日はもう寝る 《10月30日(火)》晴れ 7:30午前7時30分起床、朝食後、いま一番新しい難民キャンプ、シャムシャトーキャンプへ行く途中、古い難民キャンプにあるバザールで支援用の毛布や布団を調達する。
でも売っている品物は他のボランィア団体が支援したものを横流ししたものだという。ガイドに聞く話によると、ボランティアが折角運んできた支援物資だが難艮キャンプに直接届けることが難しくてこのようになるという、私たち一行は難民キャンプに支援物資を届けることがいかに難しいかを改めて思い知った気がした。
難民キャンブでは大勢の難民に周りを取り囲まれるので身の危険さえ覚える気持ちは分かるがすさまじい限りだ。中には、私たちにケンカ腰で向かってくる者まである。
まるで飢餓の世界だ。このキャンプでは支援の人たちが直接子供たちに支援物質を手渡したのは初めてということだ、大変感謝された。
シャムシャトーキャンプは全体で5万人の難民が暮らしているが、今日来たこの村は600所帯の人たちが暮らしている。支援物資は難民に直接手渡さないとリーダーたちがすぐに横流ししてしまうそうだ。
シャムシャト-の難民キャンプ
警官でさえすぐにネコババするというからすさまじい、最後に子供たちの靴と靴下は校長先生に預けることにした。そうしないと奪い合いが始まってしまうのだ。私たちが物資を手渡しているときでもズルイ者たちは何回も何回も並んでくる。並ぶと言うよりも奪い合いにくるといったほうが正しいだろう。
泣き顔を作ってすがりつくような目でみんな寄って来るのでかわいそうに思っているととんでもないことになる。正直者はいつまでたっても物資を手にできない、それがキヤンプの現実だ。
私たちは帰り道で米を届けに来た国連の人たちのトラックとすれ違った。トラックは6台だったから6台分の米だろう。食料はいろいろな所から届けられるから心配はないと思ったが、それらは難民に直接手渡される訳ではないので殆どが横流しされてしまうとのこと、キャンプヘ行く途中のバザールではこのような支援物資の米や衣類、毛布などが平然と売られている、本当にひどい話だ。 16:00
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21:00みんな苦しんでいるのに、難民支援として世界から送られてくる物資で財を築くやからがいるなんて本当に許せないことだ。
帰り道に弁当を食べた、しかし私たち日本人にはなじめない弁当なので殆ど残してしまう。弁当の中身の鳥肉はスパイシー揚げと訳の分からない揚げもの、小麦粉をといて焼いただけのナン、ナンは形は違うけどパンと同じだ。
バナナにビスケット、それだけではない、私たちの食事風景を見るために現地の人たちが集まってくる。弁当を少し子供たちに分け与えたが腕力の強い大きな子が奪い取り早々に立ち去った。私は悲しみと怒りが同時に込み上げて涙が流れそうになったがこれが現実なのだ。午後4時ホテルに戻り水のシャワーを浴びてから夕食、午後9時に就寝。日本時間午前1時。《10月31日(水)》晴れ 7:00午前7時30分起床、朝食後難民センターに行き入境許可書を貰って警察でスタンプを押して貰う。警察が難民キャンブの横にあるのですぐに群集に囲まれる。
早速出発するが、外国人はこれ以上進むことはできないとキャンプのゲートの前で機関銃を持った警官に止められる。ここからは何が起こっても不思議でない最も危険な無法地帯だという。警備の厳しさから身の危険を肌で感じる。 12:50仕方がないので方向転換して10年前にできたというカチアガリという難民キャンプヘ向かう,病院に立ちより医薬品を届けたが、薬の説明が大変だった、難民キャンプの中の病院は診療の順番待ちで一杯だ。
ブルカの女性達と綿貫氏
子供たちにカメラを向けると男の子はおどけた表情を見せるが女の子は逃げ出すか顔を隠す。これも文化の違いだろう。広場には子供たちの遊具が一台だけポツンと置かれていた。午後12時20分病院を後にして昼食をとりにホテルに戻る。 17:30昼食後、足りない医薬品を買いにバザールに行く、日本で言うところの問屋街という所だ。車の部品(中古)、薬、肉、雑貨、食品、衣料品などを売る小さな店が何千と集まっている場所だ。またどこへ行っても私たちの周りには黒山の人だかりができる。
これからシャムシャトウ難民キヤンプに向かうが、今日は昨日と違う部落に物資を届ける。シャムシャトウは5万人の難民が暮らしているが警備の警察官は常時4〜5人しかいないので非常に危険な場所だ。
私たちを見る、通り端のアフガニスタン人の目はかなり険しい、何が起こっても感知しないという無法地帯に入り込んだようだ。ようやく無法地帯を抜けだし一路ホテルに向かう一行、午後5時30分ホテルに到着。
今日は唯一良いことがあった。最年少メンバーの江木君の奥さんが第一子の女の子を産んだと言うファックスが日本からホテルに届いた。目鼻立ちが整った元気な赤ちゃんだという、とはいえ異国で受けた朗報、タ食時にメンバーが持ってきた日本食を食べることにした。江木君の子供の誕生を祝って小さな庭で囲んだバーベキューの味は最高だった。やはり日本食はうまい。
今夜は外がやけに騒がしい、爆撃機か偵察機だかは分からないが飛んでいる。ここはいつも緊張感が漂う土地だ。明日は足りない物資を買って難民キャンプに届けなければならない。 21:30それともう一つ、今日聞いた話だが、アフガニスタンヘのボランィア医師として日本のテレビに良く出ている中村某が私たちの活動を批判した発言をしたと言う、その内容は「自分を通さなければ何もならないただの迷惑だ、渡した物資は捨てられるだけだ」と、どうやらこの御仁は自分だけがアフガニスタンで正義を通していると思っているらしい。自分だけがアフガニスタンで良いことをしていると、何と小さい人なのか、日本の著名人にこういう人がいるかと思うとガッカリする。午後9時30分就寝。 《11月1日(木)》雨後曇り 7:30午前7時30分起床とはいっても、午前4時30分頃から爆発音のような音が何回も鳴り響くのでよく眠れなかった。外は半年ぶりという雨も降っている、それも豪雨だ、寝床の中で「あの赤土のキャンプは大丈夫だろうか」「あの家は大丈夫だろうか」「道路や地面に積もっていたパウダー状の赤土で人も歩けないほどにぐちゃぐちゃだろうな」などと思いながらうつらうつらしていた。 9:30午前9時30分、ホテルを出ると雨はやんでいた、街も埃っぽさが消えている。
これからバザールに買い出しに行く、文具、寝具、菓子など、私は買い出しの途中でみんなとはぐれてしまった迷子になったのである、自分のいる場所は分からないし言葉は通じない。群集が好奇の目で私一人に集中している。私は好奇の目と戦いながら一時間ほど街をさ迷うはめになったがどうにかホテルにたどり着くことができた、まずは一安心。 今目はアザヘルキャンプヘ行って校長先生や子供たちに物資を手渡す。 21:30キャンプ廻りも今日で最後だ。(無精髭もだいぶ伸びてしまった)
パキスタン時間午後9時30分(日本時間午前1時30分)《11月2日(金)》曇り 6:30
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10:00午前6時30分、足首が痛くて目が覚めた。私はむかし競輪選手だった選手時代の後遺症から、歩きすぎて腰に疲れが溜まると足首がすごく痛くなる。メンバーがバファリンを持っていたので飲んだら痛みが少し和らいだ。朝食後、帰国のためペシャワール空港に向かう。また長い旅の始まりだ。空港では厳しいチェックを受けてから空港ロビーに入り午前10時発のカラチ行きを待つ。 12:05飛行機から見るパキスタンは緑が殆どなく荒涼とした赤土ばかりだ。今日は直航便なので2時間でカラチに到着、カラチ空港の周辺は少しだか緑が見える。
午後12時5分、一度ホテルに入り出発時間まで一休み、ペシャワールとカラチの街とは雲泥の差がある。建物の様子も全然違う。ペシャワールがかなり混沌とした街だったのでカラチが良く見えるのだと思うがペシャワールよりもはるかに都会だという感じがした、昼食後、カラチの街に出た。
カラチ中の洗濯物が集まる洗濯場に行く、川原一面に延々と続く洗潅ものは圧巻だ。ここで洗擢する人たちは、代々変わらない家系らしい。次はカラチのシンボルであるモスクへ行く、巨大な球状の建物の地下には墓があるとのこと、アラビア海岸にはテントが幾つも建てられており市が開かれていた。
地元ではこの市を泥棒市と言うらしい。海辺にはラクダの背中に客を乗せる観光業者がたくさんいた、ラクダに乗ると一回り100ルピーだ。米ドル1ドルが62ルピーで換算すると日本円で160〜170円ぐらいだろう。 カラチ時間
21:20
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マニラ時間
9:00
(日本時間10:00)カラチ時間午後9時20分、我々の乗る飛行機はカラチ空港を離陸した。
いよいよマニラ経由で日本に帰る時がきた。機内は狭くて椅子が小さく7時間も乗っていると体がつっぱり足がむくんでとても痛い、ようやくマニラに到着、天気は快晴、昨日のカラチも暑かったがマニラも暑くて汗が止まらない、参った参った。空港で20分ほど休息してから再び同機に乗り込むマニラ発午前9時(日本時間午前10時)、いよいよ日本に向けての最後のフライトだ。
四国上空を通過したときにあと1時間で成田空港ですというアナウンスが流れた。気温は17度、雨だという。パキスタンとはえらい違いだ。でも派遣隊員全員が病気やけがもせずに無事に帰国できたことはすごくラッキーだった。成田空港上空から見た日本は緑が多く美しかった。私は、日本がこんなに美しかったのかと改めて感動した。
昨日まで毎日見ていたあの荒涼とした赤土の続く地帯と違う、美しい。そういえばパキスタンのガイドが言っていた。パキスタンを荒涼とした土地にしてしまったのは戦争ではない、アフガニスタン人が片端から木を切って燃料にしてしまったせいもあると、私はその時、いずれにしても原因は戦争ではないかと思ったものだ。 日本時間
14:00日本時間午後2時、パキスタン航空機は成田空港に着陸した。
私がこの8日間で経験したことは、これからの私の生涯に大きな影響を与えることになるだろう。
そして、私たち日本青年社が掲げる「自然と共生、環境と調和」のスローガンが21世紀の国際杜会にとっていかに大切であるかをまざまざと見せつけられた思いであった。
以上
現地リポート
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