日本の伝統と文化とは何か?
平成18年 5月09日 編集委員会
このほど自民党がまとめた教育基本法改正案では、教育の基本理念に「愛国心」を入れるべきだとする多くの自民党議員に対して、公明党議員団の執拗な反対に遭って、やむなく「愛国心」の代わりに、「日本の伝統と文化」を愛し、「他国を尊重する」などの文書が盛り込まれることになったことは読者諸君のご存じの通りであります。自民党議員の不甲斐なさにも呆れるばかりですが、「愛国心」と聞くと反射的に軍国主義だとか戦前の道徳だとか言い出す公明党の諸君の紋切り型の反応にも情けない思いを深くいたします。
では翻って、「日本の伝統と文化」とは何かを考えてみることにしましょう。
日本の伝統と文化というと、普通は、茶道であるとか、華道であるとか、あるいは書道であるとかが思い浮かびます。また最近では「国家の品格」などという書物がベストセラーになり、その中では、「武士道」なるものが再評価されています。そういうものが、我が国の伝統と文化を象徴するものであることは、もちろん私達も否定するつもりはありません。退嬰の極みに達した国民道徳、他人の痛みを微塵も考慮しようとしない下品な振る舞い、金と権力に至上の価値を見出す経済人や政治屋等々の跋扈する今日の社会状況を見るにつけ、「昔の日本は良かった」と慨嘆する老人の多いのも確かです。だから、武士道の復活を言うのも悪くはありません。
しかし、もっと端的に「日本の伝統と文化」を表わすものがあるのではないでしょうか。
それは、「天皇陛下」であります。天皇陛下は、もともと治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)とお呼びし、雅語ではすめらのみこと(すめらみこと)とも言われますが、天皇陛下は、もともと政治的な権力を司るというより、「日本」という国体を一身に表わすお立場にあったのであり、したがって「日本」という国土に集うすべてのすべての民草の幸を」願い、その永久なることを天に約束する、現人神であらせられたのであります。ところが、今の天皇陛下は、不幸なことに、占領憲法によって、日本国と日本国民統合の「象徴」とされてしまいました。これまでは天皇陛下が「元首」であるのか否かという政治的な概念がはっきりしないばかりか、私達国民が世界に冠たる日本国民として誇りをもって生きていくための拠り所であったのに、そのことすら失われてしまっております。
世界を見渡してみると、神武天皇以来一二五代、二六〇〇有余年に渡って明確に連綿と続いている朝廷は類例のないことであります。(歴史的な事実として皇統は連続してないなどと論う学者がおりますが、これは天皇の何たるかをまったく理解していない輩の戯言だと言うしかありません)。これまで政治権力は様々に変わったにもかかわらず、権力の形態の如何にまったく左右されない存在は、ひとり天皇陛下を除いて、どこにもないのであります。これは歴史の奇跡にも等しいことであります。ヨーロッパの歴史を見れば明らかなように、長く続くイギリスの王室でさえ、その素性は怪しげなものであり、しかるが故に、自らの権力の正当性を主張するためには法王庁の助けを借らざるを得なかったのであります。またアメリカには連続した国体というものがなく、その時々の国民の恣意的な空気のようなものに左右されている有様です。
天皇陛下こそ、私達国民が衷心から、その存在に頭を垂れ、その存在とともに生きていることを喜び、私達が生まれ来たる遥か前も、私達が死した後も未来永劫に、この日本というものが地球上にしっかりと在り続けたし、続けるであろうことを確信し得る絶対的な根拠なのであります。
私達が、今生天皇の健康を喜び、皇族方の幸せなお暮らしを喜ぶのは、そのためであります。かしこき方々は、我が国民道徳の規範であるとともに、私達の伝統と文化の象徴であり、祖先から子々孫々へと天壌無窮に続く私達ひとり一人の命の形なのであります。
しからば私達は言います。国民教育には理念が必要だというなら、日本の文化が必要だというなら、それは天皇陛下を措いてない、と。