私たちは、日本型民族主義の旗を掲げる


平成17年12月16日

 いまわが国には、「グローバリズム」という得体の知れない妖怪が徘徊しています。自分に都合のよい単一の価値観を押しつける風潮が、日増しに強くなっています。阪神タイガースの買収問題、楽天によるTBS株買い占め問題、民営化の名を借りた機械的な人員の削減路線等に見られるように、わが国が二千六百年余、連綿として培ってきた、敗戦という未曾有の国難に見舞われながらも維持してきた美風が、今や崩壊の危機に瀕しています。

 私たちは、もう一度、足下を照らして、わが国は、このままでいいのだろうか、ということを反省しなければいけないところに来ています。戦後六〇年経って、実はいま、本当の敗戦の時期を迎えているような暗澹たる気持ちを抑えることができません。日本が日本であるためには、日本が日本であり続けることができるためには、いま、一体何が必要なのでしょうか。それを一言で言えば、「弘毅ある日本」たることを目指すことではないかと思います。「弘毅」とは、「度量が広く、意志の強いこと」であります。国内外にわが国の度量の広さを示すとともに、わが国に強い意志があることを知らしめることであります。東アジアの片隅にありながら、世界が共に進むべき途を照らす松明となることが、わが国のとるべき道であります。

 では「弘毅ある」日本たるために、私たちは何をなすべきなのでありましょうか。


 第一に「敬命」の心を持たなくてはなりません。我等民草は、我等を取り巻く天然自然には八百万の神が宿り賜うことを当然のこととしてきました。山には山の、田には田の、川には川の、海には海の神が御座すことに深い感謝を捧げてきました。これが「敬命」の心なのであります。虫も獣も木も草も偶然にそこにあるのではなく、神々の深い配剤によって在ることを私たちの祖先はよく弁えておりました。多くを作らず、多くを獲らず、少なきを憂えないのが、私たちの祖先の、そしてまたほんの少し前の私たちの暮らし方でありました。多くの命を、ただ自分たちの命ためだけに奪うことを潔しとしないのが、わが国の良き伝統であったのであります。その「敬命」の心を取り戻すことが、「弘毅ある日本」たることの一歩であると私たちは確信します。


 第二に大切なのは、「敬祖」の精神であります。戦後文化で失った最も大きなものの一つは、この「敬祖」の精神であるといっても過言ではないでしょう。親を敬い、祖先を大切にすることは、国民道徳の最も基本的なものであるにも関わらず、これを弊衣の如くに棄て去ったがために、昨今の悲惨な事件が多発していることは火を見るより明らかであります。誠に残念なことに戦後廃止された教育勅語に「我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ。我カ臣民、克ク忠ニ克ク幸ニ、億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス。」とあるのは、まさにこのことなのであります。現在ただ今我が身が在るのは、決して自分だけの力であるのではなく、滔々と続く祖先の賜物であることに深く思いをいたす時、その有り難さに自ずと頭が下がるはずであります。家々でそれぞれに祖先を祀るという風習はわが国に固有の美風なのであります。キリスト教の如きには家々で祖先を祀る習いはなく、キリスト一人を祀れば良しとする、実に横着なことをして、何ら恥ずるところがありません。祖先を大事にしない国に、世界の行方を任すことはできません。

 この「敬祖」の精神を最高度に現わしているのが、宮家なのであります。国を肇むること二千六百有余年、一度たりとも途絶えることなく万世一系を保っているのは、世界広しといえどもわが国だけなのであります。宮家は「敬祖」そのものであり、神武以来平成、さらにその先へと続く皇祖皇宗の顕現であり、従って現人神というに相応しい存在なのです。私たちが天皇を尊び敬うのは、自からなる日本人の気持ちなのであります。


 第三に私たちは「敬朋」の心を忘れてはなりません。「朋」とは、朋友、同朋という言葉があるように、「仲間」であり、「同門の友」であります。先に挙げた教育勅語にも「朋友相信シ、恭儉己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ」とあります。ここでいう「朋友」とは単に私たちの身近にある友人・知人だけのものではありません。東アジアの周辺にある国々もまた私たちの「朋」なのであります。不幸にして一時期、これらの朋国との不仲をきたすことがありました。「大東亜」が共に栄えることを大義とする、その良き精神を一部の経済合理主義者たち、市場占有主義者たちが自分たちの都合のよいように曲解して、朋国を属国たらしめようとしたことが、その大きな誤りでした。今日また、「グローバリズム」の名を借りたこうした輩によって、わが国の進路を誤たそうとしています。私たちは強く主張したいと思います。朋を敬い、尊ばざるものは、再び破れる、と。私たちは、私たちの隣国、周辺国を「朋」として敬するとともに、わが国の「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼」していくことが、新しい世紀の私たちの使命であると考えております。


 以上の三つ、すなわち「三敬」を私たちの精神の礎とすることが、日本を日本たらしめる第一歩であることを私たちは深く心に刻み込まなくてはなりません。誰に強いられるのでもなく、自ずから頭が下がる、これが「三敬」なのであります。

 この「三敬」を礎として、そのうえに私たちの暮らしの基本として、「四愛」を確立することによって、「弘毅ある日本」の姿が出来上がると思われます。この四つは、日々の暮らしの基本であります。


 その一つは、「愛国」であります。「愛国」とは漠然とした考えのように見えますが、実は非常に具体的なことです。人に人柄があるように、国には国の「国柄」があります。国の持つ品位、品格が「国柄」であります。「三敬」の精神を根本に持つわが国の「国柄」を愛することが「愛国」なのであります。命を粗末にするものあらば、祖先を蔑ろにするものあらば、朋を虐げるものあらば、敢然とそれに立ち向かう気概と意志を持つことが「愛国」であります。

 もう一つは「愛郷」であります。我が国土、郷土を愛することであります。我等の父たちが、祖父たちが外国の地にて戦い、帰郷した折に、次第に近づく我が国土の白砂青松を眼にして、何故か知らずに滂沱の如くに涙が流れるのを押さえることができなかったとはよく聞く話であります。我が国土は世界に類比のない美しい環境を今なお維持しています。この美しい国土を荒らすものは何人たりとも許さないという覚悟を私たちは持たなくてはなりません。

 そして第三に「愛業」を挙げたいと思います。つまり自分たちの生業、働きを愛するということであります。現代はともすれば、汗を流さずに手っ取り早く稼ぐことの方が偉いかのような風潮があります。株や投資によって巨額を手にする者をIT長者などといってもてはやしています。このようなことが長続きするはずがないことは明らかであります。古今東西の歴史を振り返ってみれば、物を作らなくなった国が続いた試しはないのであります。ものを作る喜び、皆の役に立つ幸せというものを日々経験していくことが、この「愛業」ということであります。

 最後に「愛家」を言いたいと思います。文字通りこれは家を愛するということであります。家とは、もちろん家族でありますが、またその家族をなす親類、祖先も含めた家々の紐帯でもあります。戦後「家」というものは、農村の封建主義の根幹であるとして占領軍司令部から、その解体を余儀なくされましたが、その結果いま起こっていることは、小さく孤立した無数の巣が互いに無縁に蝟集した砂漠のような社会になっていることです。「家」とは社会の最小の単位ではありますが、同時に社会を包み込む大きな紐帯でもあるのであります。その「家」の役割を再び取り戻すことが、いま必要なのではないでしょうか。

 以上の「三敬四愛」を全うすることが、私たちの主張する「日本型民族主義」であります。「日本型民族主義」とは、経済合理主義、高率主義、市場原理主義等に対立するものであります。「日本型民族主義」は、欧米型の経済や効率を超える、敬と愛による共存主義・共栄主義なのであります。