日本の食文化について
平成17年6月24日
幹事長 鎌田 泰弘
身土不二という言葉がある。身土不二とは『人と土は一体である』『人の命と健康は食べ物で支えられ、食べ物は土が育てる』故に『人の命と健康はその土と共にある』という捉え方である。『医食同源』と根は同じであり、食べ物は可能な限り郷土もしくはその近郊で取れた物を食べる事が好ましいという教えである。
明治時代には四里四方(約十六キロ四方)でとれる旬の物を正しく食べようという運動が掲げられていた。しかし今や季節に『天然』の旬を口にしようとすると、それはあまりにも高価であり、それは『贅沢』のジャンルに組する所となっている。
その補いとして養殖やハウス栽培が進み、結果として季節感の喪失を招き『食』は文化ではなく空腹を満たす手段でしかなくなっている。
あわせて生産性の効率化が求められる事により遺伝子の組換えや輸入種子により人的操作が生まれ、自然社会に逆行するかの如き生態系の崩壊を導いていると言っても過言ではない。
食用動植物を得る手段として生産過程を認知し得ない輸入や、生産手段を人的操作に頼り自然の摂理を無視した結果、BSE、鯉ヘルペス、鳥インフルエンザ、栄養構造の変化など、人間を取り巻く環境、特に食の世界が非常に不安定になり、科学の力で自然を征服し、地球上で最も知恵と力のある動物であると過信した人間にその因果がリバウンドし、自然との調和に様々な問題を誘発している。
すべては人間の打算的な都合によるものである。
最近になって品質表示に基準が設けられ、生産過程や産出地(国)、遺伝子組換え材料使用の有無などの表記が義務付けられつつあるが、それはあくまで現実を認知する程度のものであり、よほどの食物アレルギーでも抱えていない限り消費者はほぼ無関心であるといえる。
皮肉な事にアレルギーやカロリーオーバー、成人病の増加などが食文化の変化に伴った結果である事に着眼するものは少ない。
生産手段や栄養価値(質)にのみならず『製品』そのものの輸入化が進み、我が国においては食料自給率が四十%にまで低下し先進国の中では最低の数値を示している。
ちなみにアメリカの食料自給率は百二十二%、フランスで百二十一%、カナダは百四十二%、オーストラリアはなんと二百六十五%にまで及ぶ。
食料資源とエネルギー資源を制するものは世界を制すると豪語するアメリカは、同盟国と称する我が国に対し自給率向上を促さず、むしろ農産物の輸入増加と関税引き下げを迫り、資源の乏しい我が国が生き残り戦術として向上させた技術による輸出産業で得た利益を吐き出させようとしている。こと牛肉問題ではBSEに対する科学的根拠を置き去りに貿易問題にすり替え『制裁措置』まで宣言する始末である。
では農作物といえばどうであろうか。我が国が輸入する種子の大半が『一代交配』の種、つまりその種から育った農作物からは次の生産につながる種が取れないと言う代物である。実の付きが良い事から農家に持てはやされる一見便利なこの代物は、言うまでもなく食料資源に大きな影響をもたらす。一代交配である事から、何らかの外交摩擦により制裁なるものが発動されれば、それは即、その年の農作物にさえ影響を及ぼす事となる。このまま何の対策も施さなければ我が国は黙っていても十数年で自給率二十%にまで落ち込むとさえいわれている。
食料自給率の引き上げは火急的な問題であり、同時に農耕民族である日本人にとって農業の停滞は生活と文化、つまり民族性に関わる重要事案である事に注目すべきである。
自給率と並ぶもう一つの問題が食生活の変貌である。
敗戦後の高度経済期に入る昭和三十五年頃と今日で比較すると、肉の消費量で約八倍、油の消費量は約十倍に至る。かつての日本人は低タンパク、低カロリー、低脂肪の食生活を送っていた。しかしこの数十年の間にアメリカナイズされた食生活が広がり高タンパク、高カロリー摂取の国へと変貌している。これほど急激な食の変化をとげた国は世界でも類を見ない。その変化は草食動物が肉食動物に変化した程の違いがあるといわれる。
かつての日本は皆、日の丸弁当、握り飯、漬物、納豆、魚の干物などを食しており、それでも栄養価値に然したる影響もなく過ごしてきていたはずである。
国柄や民族性、習慣や言語に違いがあるように日本人には日本人にあった食生活がある。現代病といわれる糖尿病などにみても分かるように特別な管理を必要とする食に求められるのは、かつての日本人が食していた食生活にある。また体に良いとされる食物は海草、魚、根茎、大豆などであり、それらは日本人が主食としてきた食物である。
食の変化は家庭にも責任があるといわれる。
家庭での調理が軽視され、忙しさにかまけて、事あるごとに外食産業に食を求める。忙しさの理由はといえば共稼ぎであったり、サークルの付き合いであったり、さまざまであるが、それが例えやむを得ざる理由であったとしても怠ってはならないのが家庭料理である。然るに巷では『家庭料理』や『お袋の味』なる宣伝が目に付く。求められるニーズと現実とのギャップにあえいでいるとするならば、それは努力によって改善しなければならず、金さえ出せば好きな物が好きなだけ食べられ、味覚的にも遜色のない物品社会におぼれ、日本人に則した季節感も摂取すべき栄養的価値観も育む事の出来ない環境は国の存亡に関わる重大事である。
今、多くの日本人が生活環境に対する不満すなわち経済的な不満や就業待遇などの不満をならべ、その環境改善のために権利ばかりを主張し、人として果たすべき義務を忘れている。努力をせずに楽をしようとする感性が習慣化し、食の世界でも調理という努力を怠りながらそれでも美味しいものを食べたいという感情が先行している。
親の背を見て子は育つということわざをかりるならば、そうした大人の姿を見た子供たちは将来同じ事を繰り返す事になる。そしてそれは世代を追うごとに慣習化し、いよいよ食文化は崩壊していく。文化を継承し、育み、伝授していく事が国の栄えであるならば、文化を大切にする心とはすなわち『愛国心』であるといえる。食文化とて例外なく文化の一翼を担うものである。
言葉はわるいが『寝貯め・食い貯め・やり貯め』は出来ないという事になぞらえるように、何気ない日々の生活で欠かす事の出来ない食文化は本能によるものであるが故に空腹を満たすだけの手段であってはならないはずである。 祖国の歴史や伝統、文化を説く我々民族派にとってこうした『食』の現実は看過しがたいものである事を再認識し、食料自給率でいう、いわゆる国力の増強と日本人の心を取り戻す事を急務としなければならない。