平成16年7月28日
国立大学の現在の受験事情
(1)現在理系を志望する受験生は、基本的には早慶を目指し、そのすべり止めとして東京理科大学を捉えている現実がある。(医学部と東大、京大の今日総合科学関係が難関を極めている。)
こうした現実は日本社会の変容が大きく響いている。それと共に私立大理系においては国語、社会が不要であるから受験生にとって難しい英・数・理に絞ることもあり、このような事態になったものと想定できる。
(2)社会の憶測が見えてくる
1960年代後半から日本の高度経済成長は目を見張るものがあった。それは現在の中国の経済一辺倒と良く似たものでもあった。つまり、マックス・ウェーバーが言うゲゼルフト社会(利益社会)が追求され、ゲマインシャフト社会(協同社会)がおろそかになり、教育の根底をなす全般的な基礎知識を身につけた大学がほとんど存在しなくなったことを意味している。具体的に言えば、獣医学部など大学の教養課程で出来の悪かったものの行く場所であったものが、今や堂々と国立大学の理系の学力上位組が占めることになっていることからも、これらのことは疑いもない事実として把握しておいておくべきだ。
(3)理系離れに早急な歯止め策を
確かに社会に出て理系出身者は生涯勉強を強いられることもあり、同じ利益なら文系を選択するのはこれまた陶然である。しかし、こうした傾向が続けば日本の製造業が低下を招くのは必至であり、“日本亡国”は今やその姿を現わしているといえるだろう。その例がH2ロケットの度重なる失敗や、三菱自動車の欠陥自動車に見ることもできる。こうした現実を私たちは否定的現実として捉え、国立大の改革を訴えるものである。
こんなことを見逃していては日本は「ひょっこりひょうたん島」となり、アジア世界から見放されるのも極めて現実味を帯びているのでる。
だから我々は文部省に要求する。理系重視の教育に早急に取り組み、理系離れを改善することを要求するものである。
学校は元来、学び舎であり、それに付随して体育があるのだ。だから、偏差値教育からの脱却を図り、ゆとりを持つことで想像力を高め、個性を育成しようという文科省の狙いは、そもそも矛盾したものである。それが、一九九〇年代の後半になって、学力低下が急激に叫ばれるようになった。
再度言うが、子供にゆとりを持たせてもろくなことはおきない。偏差値教育からの脱却など、どこかの組織の陰謀である。
ゆとり教育で、一番喜んだのは、学校関係者である。特に、教師は教育現場から離れることが多くなり、カリキュラムが減り、勉強することも少なくなった。ここに、ある先生がいる。近くの市の小学校の教師をやっている。彼の日常を見ていると、夕方の四時半にはT市の飲み屋で飲み始め、K市の中学には定時まではいず、T市でアルコールに浸っている次第である。その彼は小利口だから、K市や自分が住むH市では決して飲まないのだ。それは誰が考えてもそうに決まっているが、学校は八時半に登校し、五時に退勤する制度が確立している。その逸脱が「ゆとり教育」の破産の典型例だからである。
日教組が強い時代に、文部省は日教組懐柔政策として、賃金を大幅に引き上げ、当然退職金も引き上げられた。そのぬるま湯にこの何十年、公教育界は浸っていたのだ。だから、先生の学力は生徒と一緒に低下し、塾の先生に教えをいただくと言う恥ずべき自体が生じているのである。石原慎太郎は東京都の教育改革を試みているが、この何十年かのつけを払拭することは極めて難しく、今回スタートした新しい高校入試制度も石原慎太郎にとって満足のいく結果になっていないはずである。
日本の近代化が図れたのは、江戸時代に寺子屋が普及し、明治維新の立役者を多く排出した松下村塾に代表されるような塾が点在してあったことによる。そうでもなければ、軍事大国ロシアに間違っても勝つことができなかったはずだ。また、日英同盟などができたのも、英国が日本を評価したことによる。
このように、教育をないがしろにすることは、国債を発行し続けることと同じ意味で、日本崩壊につながることになるのだ。