平成15 年03月13日
憲法調査研究委員長 横山正幸
昨今の北朝鮮に関するマスコミ報道の中において、我が国の自衛権に関する事も取り沙汰され、一応国家の自衛権について認識を新たにする国民が増えている事も事実であり、マスコミ報道がすべて正しいとは言えない事からも、当委員会としての見解を述べたいと思う。結論からいうと日本国にも自衛権は存在するし、これは他の国際杜会を構成する国々と同にであるという事である。以下その根拠を述べたいと思う。
●憲法前文に見る理念
「日本国民は恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷徒、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するものである。」(前文より)
前文によれば、日本国民の安全と生存ほ、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して保持するというのである。平和を愛さない諸国民の不公正と不信義にまで信頼するというのではない。北朝鮮がとちらの存在であるかは明白である。
もう一つの理念として国際協調の理念である。すなわち
「われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、この政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる」(前文より)
北朝鮮にこの国際協調の理念があるとは考えられない。前文においての結論は、北朝鮮は、現行憲法の理念にまったくあてはまらない国家であるという事である。
●憲法第九条は目衛については何も定めていない
「第九条(1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
この規定を見ると、戦争放棄の宣言をしているのは、第一項の規定である。ところで、この第一項の規定において放棄されている戦争は、国際紛争を解決する手段としての戦争である。自衛のための戦争はこれを含まない。現行憲法での戦争放棄の内容は、日本が対外的に国策を遂行する上で、他国との間に紛争が生じた時、すなわち戦争という手段は、国際紛争を解決する手段としては、如何なる場合においても用いないという事である。
そして、第二項については、この第二項の規定は、第一項の目的を達するための規定である。第一頂の目的というのは、国際紛争を解決する手段としての戦争は永久にこれを放葉するということである。すなわち第二項の規定は、この第一項の制約を受けている規定である。軍備を設けない、また国の交戦権を認めないと定めた第二項の規定は、国際紛争を解決する手段としての戦争のための軍備はこれを保持しないし、国の交戦権も認めないということなのである。
戦争は、一般にその目的を標準として、侵略戦争・制裁戦争・自衛戦争の三つに区別することができる。自衛戦争とは、外国からの急迫、不正の侵害に対してやむをえず実力をもって自国を防衛する行為をいい、制裁戟争とは、侵略国を制裁する行為をいう。自衛戦争のの概念は一九二八年の「戦争放棄に関する条約」以来のものであり、制裁戦争の概念は一九四五年の現行国連憲章に至って確立した概念である。侵略戦争とは、自衛戦争と制裁載争を除く一切の戦争をいい、国際条約では「国際紛争を解決する手段としての戦争」という表現が用いられる。侵略戦争は国際法上勿論違法とされているが、自衛戦争と制裁戦争は国際法上合法とされている。
「戦争放棄に関する条約」で、条約の締結に際し、米国の国務長官ケロッグは「不戦条約に関するアメリカの草案には自衛権を少しでも制限し、または害するものは何もない。(中略)すぺての国は、いつでも条約の規定にかかわりなく攻撃又は侵入に対し、自己の領土を防衛することが自由であり、その時の事情が自衛のために戦争に訴えることを必要とするかどうかは、その国だけが決定する権限を有する」と述べた。
また国連憲章第二条第三項では、国際紛争を解決するための戦争(侵略戦争)を禁止しながらも、第四二条では制裁戦争を認め、また第五一条で自衛戦争を認めている。
以上述べた事からも明らかなように、日本にも自衛権はあるということである。現行憲法は平和主義を強調しているが、そのいわゆる平和は無責任な無抵抗の平和をうたっているのではない。真の平和は平和を破壊する暴力を排除することなしでは維持することはできないものであるから、日本の平和を破壊する暴力を排除するための実力行使の手段を否定するわけにはいかない。
つまり、侵略があったとき、日本がこれに対して抵抗するかしないかは、その時々に日本自身の自由にとるべき政策の問題であり、違憲合憲の問題ではないということである。