平成14年07月30日

東京裁判の不条理

 東京裁判(極東国際軍事裁判)が国際法の常識から照らして全く野蛮な復讐劇であり政治的茶番劇にすぎなかったことは世界の識者のなかで認識されているにも拘わらず、当の日本では東京裁判を否定すると「右翼」とか「軍国主義者」とかのレッテルを張られてしまう。三ヶ根山の慰霊祭がそのいい例だ。本来ならば敵によって処刑された英雄として国民全体で慰霊祭を行わなくてはならないのに、現実は遺族と一握りの人々によってひっそりと行われている。

 東京裁判は日本国民を二つに分断した。戦争責任を負う者「戦犯」と戦争被害者である一般国民とに。そして国民は戦犯を非難することにより加害者の立場を免罪されたのである。無罪判決を受けた国民は戦犯を東京裁判を受け入れ疑いを持つこともなかったのだ。

 先日の靖國神社首相参拝の問題で言葉の意味も分からずに批判するものが多かったが問題を整理したい。

 戦勝国の検察官は日本が1928年(昭和3年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日間での間、一貫してアジアを侵略して支配下に置くための陰謀を企て、その謀議に沿って満州事変、日中戦争、大東亜戦争を引き起こしたのだと主張し、これが裁判の最も重要な焦点となった。そして、この「共同謀議」をした犯人として軍人、閣僚など28人を起訴し、これを「A級戦犯」と呼んだ。この28人は思想も信条も違う人々であり、中にはあったこともない人も含まれていた。

 こんな明らかな事実があるにも拘わらず強引に有罪を宣告し、7人を絞首刑、16人を終身禁固刑、2人を有期禁固刑に処した。この内7人が獄死したので刑死者7人と合わせて靖國神社にまつられている。これをA級戦犯の合祀という。

 中国や韓国の抗議に恐れをなした人々は靖國神社からA級戦犯をはずせと言い、神社側から断られると、新しい施設を作るべきだという。国のために命を捧げた人をまつるのに他国の干渉を受け、それに従う国が世界広といえども独立国の中で存在するのだろうか。国民が自国に誇りを持つならばこんな議論が起こるはずがないのだ。

 「A級戦犯」についてももう少し考えてみると禁固7年の有罪判決を受けた重光葵・元外相は釈放後に再び外務大臣(副総理兼任)になり、1956年(昭和31年)、日本の国連加盟式典に代表として出席、国際社会復帰の声明文を読み上げ、万雷の拍手で迎えられた。「A級戦犯」重光と握手を交わしたのである。しかし死んだ後まで「戦争責任」を問われ、靖國神社から外せといわれる「A級戦犯」も存在するのである。この事が東京裁判そのものがいかにいい加減なものであったかを物語っている。

 東京裁判を批判したインドのパール判事は裁判官の中でただ一人の国際法学者であった。彼はこの東京裁判を認定し許容する事自体が「法の真理」を破壊する行為だと判断し、こんな裁判が容認されれば法律的な衣をまといながら戦勝国が敗戦国を一方的に裁く、野蛮な弱肉強食の世界を肯定することになると強い危惧を持ったのである。

 日本を占領し東京裁判を主催したマッカーサー自身が朝鮮戦争後に米上院で日本の戦争の動機は「安全保障の必要に迫られてのこと」つまり自衛戦争であったとはっきり証言し、世界中の学者や政治家も東京裁判への疑念を表明している。

 東京裁判研究の第一人者である田中正明氏によれば、蒋介石も松井石根大将が処刑された事に対し「あれは間違いだった」とハラハラと涙を流したという。

 日本人の心を蝕み続けている東京裁判史観から一刻も早く脱却し、日本と日本人に誇りと勇気を蘇らせるため闘い続けなくてはならない。

 これこそ思想戦であり、思想集団日本青年社の任務なのだ。