平成13年09月12日
「新しい歴史教科書」をめぐる攻防
8月15日、我が国にとって2つの重大な決定がなされた。1つは靖国神社への首相の公式参拝問題、もう1つは中学校歴史・公民教科書採択の最終決定の日であった。前者は参拝日の前倒しと言う形で終結し、後者は公立普通中学校では「新しい歴史教科書」の採択は皆無と言う結果に終わった。私たちはここに表された日本の現実を冷静に見つめ、改革の方向を打ち出さなくてはならない。
そもそもこの2つの問題に対し韓国・中国が深くかかわり、不当な内政干渉を行ったことにより問題を複雑化させ、正当な判断を政府・国民から奪ってしまった。しかし政党がこぞって首相の靖国参拝に反対し、扶桑社の「新しい歴史教科書」の採択に反対する動きに対し国民ははっきりと意思表示を行っている。各報道機関のアンケートでは首相の靖国参拝に対し7割以上の国民は支持を表明し、扶桑社の市販教科書は売上1位を続けている。
この国民の声こそ、我が耳を傾けるべき声であり、その為の運動を展開しなくてはならない。ここでは教科書採択問題と教育問題を中心に現在的課題を考えてみたい。
日本の学校教育の問題点は大きく分けると3つ存在する。1つは世界の教育水準に対し日本の学力低下がこの数年著しいということである。日本は教育立国である。戦前・戦後を通じて教育によって国を維持し、発展させてきた。明治維新の教育は日本を東洋の孤児から帝国ロシアをうち破る列強の一員にまで短期間に成長させた。大東亜戦争に破れはしたものの、国民の血の滲むような努力によって日本は経済大国に再生できた。この原動力は日本民族の高い能力を教育によって引き出すことに成功した事による。しかしこの日本の持つ底力が現在危機に瀕している。これが第1の問題点だ。
第2は道徳心の欠落だ。親子・兄弟が啀み合い、自分の子供まで虐待し殺す最近の事件の多発はいったい何を示しているのか。人間として何が必要なのかを教えることができないでいる現在の教育は本当の教育と言えるであろうか。戦後民主主義は日本人の持つ良心の一番深いところでズタズタに切り裂いた。この問題は第3の問題と関わっているが、日本人の持ってきた誇りを否定し、自信を喪失させる戦後教育の目的が完成しつつある事を示している。
そして第3の問題が自虐的歴史観を超越し国民に自国への愛と自信を育てる教育の必要性なのだ。
「新しい歴史教科書」はこの問題に良心的知識人が挑戦した、本格的な戦いであった。教科書の作成という困難な、血の滲むような努力の結果完成した扶桑社版歴史教科書「新しい歴史教科書」は検定の段階から国内の左翼勢力・マスメディア・近隣諸外国らの総攻撃を受けた。本来非公開な筈の自表紙本の内容が外務省OBの検定委員によってマスメディアに流され、そこから韓国・中国政府に通報された。
独立国家である日本は、韓国・中国の原告であるが如き干渉を受けた。悲しい事にこの理不尽な、強圧的な不当干渉に対し堂々と対応する政治家が存在しなかった。文部科学省は137ヶ所の書き直しを指示し、それには従ったから問題はないと言い訳に終始し、内政干渉−−−そのものに対し抗議することも出来ないでいた。外務大臣は「誤った歴史観を持った人々がいる」と言い、日本の立場よりも中国の立場を重視した。小泉首相は基本的にこの問題に触れずに日和見を決めた。「同床異夢」と言う言葉がある。政府与党はまさにその言葉が当てはまる状況であると言える。公明党と自民党は生まれも育ちも違う。さらに思想、信条も違う。全く相入れない組織だ。それが政権を握っている。特に外国に対し、国論を統一し、困難を克服しなければならない時に違いが表面化してきた。少なくとも小泉内閣は閣内不一致を無くし、外国の不当干渉に対し堂々と対峙し国益を全うしなくてはならない。
教育に対し何を為すべきか
私たち日本青年社は結成以来、教育の正常化を求め運動を行ってきた。日の丸、君が代問題はようやく決着を迎えたが、戦後教育の抜本的改革は開始されたばかりだ。新しい歴史教科書は未熟とはいえ産声をあげた。採択の段階で一敗地にまみれたが、良心的知識人が教科書作成という運動を成し遂げた事に注目したい。日本青年社は全国各地で採択の正常化を求めて要望書の提出を行った。この運動は形を変えて今後も続けてゆかなくてはならない。さらに教育現場の中に同士を作りだし、学生・教師の組織化を行わなくてはならない。本当の教育改革はそこから始まるであろう。