平成13年07月24日総本部編集委員会
楽しい「夏休み」がやってきた。伸び伸びした「休み」でなければできないことがしたいのが生徒・学生の大きな希望だ、ということは疑いを入れない。私たちもそのこと自体反対するどころか大いに賛成だ。だが、そこには前提が不可欠だ。
年々理数系の学力低下が深刻な事態に立ちいたっているからだ。つまり、伸び伸びと遊ぶには不得意な科目を克服するチャンスでもあることを前提としなくてはなるまい。
理数系の学力低下について、日本青年社は機関紙「青年戦士」で度々関係者に警鐘をならしてきたところである。このことは何としても阻止し、克服すべき教育現場の緊急の課題である。
(1)
日本がおかれている現状は、経済の自由化に伴う自由競争である。物質的資源に乏しい日本にとって「人間(頭脳)」を媒介とした技術資源によって競争に耐えなければならない条件にある。そのため明治以降、わが日本人は理数系に重きを置き一生懸命勉強した。そのため、西欧の「植民地化」にもならなければ、米国の極悪な二度にわたる原爆投下の末の敗戦による米国の占領によっても、その勤勉さによって、日本の伝統的文化を守り、技術革新を成し遂げ、奇跡の経済復興を果たしたのである。それは理数系教育の重視があったからこそである。
(2)
今から30年〜40年前の大学、高校の風景を思いだそう。中学校で優秀で、高校までいけない貧乏な家庭の子供は第一に工業高校を目指した。大学は理数系で一杯で文系は圧倒的少数だった。また、現在の理数系だけの高等専門学校が生まれた。いい換えれば文部省(現在の文部化学省)は理数系重視の政策を保っていたのである。この教育を受けた人たちは今や、団塊の世代となり、基本的には企業等の一線級をはずれる時代を迎えている。
(3)
その後、文部省、教育関係者は、世界のグローバル化の中で、法学部、経済学部、文学部とシンプルな文系の解体を急ぎ、国際××××学部をつくり、高等教育の中心を文系に移すことになった。
いうなれば、「英語が話せる教育」である。ここで大胆にいえば、ビートたけし(北野武)のお母さんが、「米国では誰でも英語を話している。英語を話せることなぞ学問ではない」といったそうだが、そうなのだ。昔から「読み・書き・算盤」というではないか。「話してナンボ」とは日本ではいわないのだ。高名な学者、岸田秀は主張している。「私はフランス語は古典まで読めるが、会話は全くできない」と。加えて、それがフランスの活動に支障を来さないとも。
このことは学問、学術的なこととは、「会話」ではなく、「読み・書き・算盤」が基本であることの証左である。話さなくても良い。原文でシェイクスピアが読めることの方が大切なのだ。