―ODAの疑惑を衝く―(1)
密室で配分される不透明
平成13年11月22日
1970年当初、わが国のO DA(政府開発援助)は1650憶円にすぎなかったが、現在では毎年1兆5千億円前後に膨らみ 、しかも企業、関係省庁、実施機関、その背後には政治家の影が見え隠れしている。そして援助国の環境破壊―。一体、ODAは何のために、誰のためなのか!
亀井静香前自民党政調会長が「30%削減する」とぶち上げた平成13年度ODA事業予算総額も「3%減」の1兆4500億円となった。
わが国自体が経済不況の景気低迷にあえいでいるのにODAは、バブル時代と少しも変わっていないというのはどういうことだろう。
1970年のODA開始時は1650億にすぎなかった。そして5年後の75年には3110億円、80年には7490億円と10間で5倍に膨れあがった。
1988年11月、竹下登元総理が「トロント・サミット」で〈世界に貢献する日本〉を表明し、ODA予算は1兆5千億円に達したことから援助額が米国を抜いて世界一となり、会計検査院がなかなか手が出せない聖域が、一段と密室化され、数百億円もの援助案が、外務、大蔵、通産、経企(以下も旧省庁名)の「四省庁体制」でほとんど議論されることなく、わずかな役人で決められていたことが批判された。
竹下元総理が〈世界に貢献する日本〉を表明した5ヶ月後、政府の各閣僚は、当時の閣議において「対外経済協力関係閣僚会議(ODA関係閣僚会議)に入れてほしい」と、猛烈な陳情合戦を展開した。その結果、政府自民党内の調整で、前記四省庁以外に文部、厚生、農水、運輸、郵政、労働、建設、科技、環境の省庁官房長が加わることで決着した。
つまり、このODAが、国会の審議なしに1兆数千億円の配分先が「閣議決定」で通ってしまうところに密室性があり、不透明だと指摘されることになる。
確かに世界中には「恵まれない人やかわいそうな人が数億人もいる」といわれる。それにひきかえ、日本は「飽食と物質文明」を享受しているのだから「援助しよう」と言う動機は健全で当然だといえる。
だが恵まれた国が、恵まれない国を援助するという美名のもとに、援助国である日本は、被援助国である開発途上国の「国益」にとらわれて「国民」の意思や感情を無視しているケースが多い。
例えば1986年2月のフィリピン大統領逮捕後「フィリピンの政治危機と、日本経済の借款供与に相関関係あり」といいたくなるような援助動向があった。日本の外務省は「日程で処理しただけ」と言いたげだったがここには明らかにマルコス政権への肩入れが感じられた。
これより3年前、マルコスの最大のライバルであるベニグノ・アキノ氏が暗殺され、フィリピンでは反政府運動が高まっていた。その中で「政敵を抹殺してしまうようなマルコス政権に肩入れした日本の援助なんか要らない」とフィリピン民衆は声を上げた。
しかし、わが国の中曽根総理(当時)も安倍外相(当時・故人)もその声を無視、その結果が86年の大統領選で、軍部のトップが反マルコスで決起し、アキノ夫人が大統領に就任した。マルコスはハワイに逃亡し、巨額な公金横領が表面化した。
1972年にマルコスは、戒厳令を敷き、独裁政権に走ったその年に日本政府は123億円(商品借款、第2次)を供与し、アキノが暗殺された4ケ月後の同年12月に425億円(第12次、うち352億円は商品借款)、58年12月には495億円(第13次、うち329億円が商品借款)と援助を続けた。
この援助では、受入国政府の自由裁量が利く「商品借款」が異常に多いが、当時の外務省は、その内訳の公表を拒んでいた。
この様に独裁政権に肩入れし、延命に手を貸した日本政府は、フィリピン国民の意思を無視した不透明な「援助」だったにもかかわらず、わが国の外務省はその非を認めようとしない。
「外交機密費事件」を始め、「領事館不祥事」、「ホテル宿泊代水増し事件」など、このところ不祥事つづきの「外務省」がこのODAの主要な窓口となっていることから、このODAが彼らの「食いもの」にされていることはほぼ想像できる。
次号以降、砂糖に群がる蟻のようにODAにからむゼネコン、コンサルタント、商社、政治家などにも忌憚なくメスを入れていくのでご愛読のほど御願いする。