環境と農業
自然と農業の関係
平成13年10月4日
日本青年社 群馬県本部 須 賀 和 男
地球規模で環境が破壊されていくこの時代に、棚田をはじめ水田の役割が国土、環境、自然を守る面からも見直されてきました。日本列島には年に平均1800ミリもの雨が降り、しかも急な地形を滝のように一時に流れ下ります。もしこのような水田と、その水源の山林が「緑のダム」の役割を果たさなかったら、洪水、土砂崩れ、水不足が起こり下流の都会もろともお手あげになってしまうでしょう。
青々とした水田は、工業文明が吐き出す二酸化炭素を光合成の力で酸素に変える天然の空気浄化装置でもあるのです。 山の自然と人里の営みが出会う棚田のあたりは、野生のけものや鳥、昆虫たちの豊かなエサ場でもあり、自然保護にも大きな役割を果たしています。 また、日本列島の急な地形にたたきつける集中豪雨も、台風の破壊エネルギーも、段丘に刻まれた水田とその背後の森林によってなだめられて水資源や有機物資源づくりの生産エネルギーに変えられていきます。有機物をたっぷり含んだ山際からにじみでる、『出水』は水田を網の目のように縫い、新鮮な山の土を運び込んで(客土)土壌を肥やします。このことは流水客土という言葉があるほどです。
傾斜地にある水田の耕作が放棄された場合、浸食され、流出する土壌は膨大な量に達し、田畑として生産力を失います。農業、農村は水資源かん養機能とともに、洪水や山崩れ、土壌の浸食、流出の防止機能も有します。さらに緑豊かで美しい自然環境、景観を維持、培養するとともに、これらを活かした都市市民の憩い、レクリエーションの施設等の場合は、青少年の教育の場としての機能等、公益的かつ多面的に役割を果たしています。米そのものの年間生産額は3兆2000億円ほどですが、国土、環境、自然保護に果たす水田の役割をお金に換算すると、年間4兆7000億円分にもなるとみられています。いま懸命に農業を守っている農民たちのたたかいとは、農業の行先不安や後継者難、都市化による水の汚染等ばかりでなく、こうしたことが最も基本です。それは人と大地との完結されていたそのネットワークを、いかにして守りきるかということなのでした。
筆者の須賀 和男氏
日本列島とはこの溜池群が象徴的であるように、米作りを基盤にして築き上げた、土地と人との壮大なネットワークでした。そのシステムを通して、川も平野も作られ、緑の山々も育てられ、地下水も川の水も養われ、土から得たものは土に還元される。自己完結型土地利用が実現されたのです。その農業を放棄すればどうなるか。土台の上に構築された日本文化は音を立てて崩壊します。人は水やマイホームを失うなど、洪水や地盤沈下や山地崩壊の危険にさらすばかりではありません。
相撲も米の文化の所産であり、それこそは国技の所以である。米作りを失った日本人は、『万葉集』から『春の小川』の童謡に至るまで、風景も歴史も、そして生きた言葉を失った故郷喪失の浮浪の民となります。3000年もの間、文化と環境とを養いつづけた日本の農業が、他のあらゆる時代にも増して、今日ほど高く価値づけられる時代はありません。国際的に見れば、それは地球環境の「地方」の守りの主役であり、お手本であり、そして国内を見れば、「地方」の復権に不可欠な土台であります。今日なおお米だけはどの県でも作っていることは、地方の自立が語られる今、何と僥倖(ぎょうこう)でありましょう。
農業というものは、自然の営みを人間の目的にそって生産に変えるものです。それはやはり自然を変えるということ、ある意味では自然を破壊するということですが、山に行ってワラビをとるということはは農業ではなくて、採取です。農業というからには、やはり栽培ということが当然おきてきます。日本の稲作くらい、一度はっきり自然の状態をこわさなければできないという農業というのは殆どありません。畑作農業はまだ多少起伏があってもできますが、水田は真平らでなければできません。自然に真平らなところなどまずなく、よほど局部的な偶然的なものでなければあり得ません。それを平らにするのですから、やはり自然をこわしているわけです。しかし、こわす目的は、やはりそこに自然的なものを、自然の営みをくり返させることなのです。そこが工業のこわし方とちがうところなのです。