第 一 部
第七章 日本の植民地の実態(台湾)
近代国家の基本条件として言語の問題があるが、台湾は日本語という共通語がもたらされ、近代国家として生まれ変わることができた。当時の台湾には台湾語という共通語が無く、各部族ごとに言語が違っていた。
「皇民家化教育」「国語愛用」は台湾の近代化、西洋文化を吸収した日本の教育を伝える手段としてどうしても必要であった。
戦後、台湾に入ってきた国民党政権は日本の近代化教育を「奴化教育」だと徹底非難しているが全く違うのだ。日本語は台湾人に押しつけたものでなく、当時日本人であった台湾人が、国語である「日本語」を学んだのである。「奴隷化」する目的が無いから膨大な教育予算を計上して国語教育を行ったのだ。植民地の国民を奴隷化しようとした西欧の植民地では教育は無視され、少数のエリートを母国に連れてゆき、母国に忠誠を誓う支配層として教育したのであった。台湾には日本の寺子屋に相当する「書房」が存在し基礎教育を教えていたが普及率は一%に満たないもので教育機関と呼べるものではなかった。
一八九八年に「公学校令」が公布され、最初に五十五校が開設された。更に一九二八年台北帝国大学が設立された。これは国内の名古屋、大阪帝国大学に先んじるものであった。一九四四年、日本領有の最終段階では台湾は日本に次いでアジア第二位の就学率を誇るまでになった。
台湾の最大の問題点は「土匪社会」である事だった。法が通用しない無法社会を法治国家にする為に警察の力を強化し、強力な匪賊に対しては軍隊、憲兵を投入した。このことが反日抗日運動と捉えられ、意図的に日本統治を歪めようとする材料に使われることが多い。日本は特に山岳地帯の匪賊征圧に手を焼いた。「出草」という首狩りの風習を捨てず、武勇の誇示を行っていた。
「圧力と話し合い」の戦術で十年近い時間をかけて「理蕃政策」を行った。最後まで帰順しなかったタロコ蕃も大東亜戦争直前に日本軍に帰順した。この人たちが「高砂挺身報国隊」となり大活躍した。後に「高砂義勇隊」の名で多くの日本国民に感動を与えた。
現在でも生還者や遺族は日本のために勇戦したことを誇りにして一九九一年、遺族の手により台北市烏来に高砂義勇隊の英霊記念碑が建立された。これら原住民が親日的なのは、日本が彼らを原始的生活から救い出し、文明社会に導いてくれたという実感による。最近原住民を徴用し戦争に狩り出したというキャンペーンを行う国会議員が出たが、高砂義勇隊は徴兵ではなく、熱烈な志願者の群から選抜された優秀な兵士であり、強制されて戦地に行ったのではない。逆にその国会議員は遺族から強い抗議を受けたようだ。
台湾の問題はまだまだあるが次回は朝鮮に移し問題点をさぐる。
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