「倫理・道徳・品格の向上」 特別寄稿
医学博士 大僧正 池 口 惠 觀
平成24年8月11日
人は人生の中で挫折を経験するものです。
しかし何回も挫折しながら、明治維新の立役者となり、その後、西南戦争で維新政府に反逆して死んでいった西郷隆盛の『西郷南州遺訓』の言葉があります。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末の困るのもなり。この始末人ならでは、艱難をともにして国家の大業を成し得られぬなり」
つまり西郷は、「命も名誉も金も捨てて、政治に奔走する人でないと、国家的な大仕事はできない」と言っているのです。
ただ、西郷の言葉に関して忘れてならないことは、その言葉には具体的なモデルが存在したということです。そのモデルとなった人物とは山岡鉄舟(本名・山岡鉄太郎)です。
山岡鉄舟は徳川の幕臣の家に生まれ、若いときは千葉周作に剣を教わっています。そして千葉周作の推薦により幕府の武芸練習所である講武所の世話役になるとともに、自ら無刀流を創始し、数千人の門人を擁する春風館道場を開いた、剣の達人です。
西郷よりいち早く、山岡鉄舟が不借身命の人であることを見抜いていたのは、幕府方の最高指導者だった勝海舟です。明治維新の年の三月、官軍を率いた西郷は静岡まで進軍していました。官軍がそのまま進軍し、総攻撃を開始したら、江戸が火の海になることは明らかです。そこで勝海舟は幕府側の恭順の意を示した西郷宛の手紙を山岡鉄舟に持たせて、静岡の西郷のもとに向かわせたのです。
当時、官軍と幕府軍は戦争状態にあり、江戸から静岡までの東海道周辺は、ほぼ官軍の制圧下にありました。その中を密使を帯びて、幕臣が単身、静岡に向かうというのは、敵中を横断するようなもので、よほど腹が据わっていないとできない、命がけの仕事です。
勝海舟は山岡鉄舟と初対面の日の日記に、「旗本山岡鉄舟に逢う。一見その人となりに感ず」と書いていますが、自分が人物と見込んだ山岡鉄舟なら命がけの大役を果たすことができる、と直感したのです。
ただ、勝海舟が偉かったのは、山岡鉄舟に薩摩藩士・益満休之助を同行させたことです。益満は西郷の部下で、西郷の命令を受けて、江戸で討幕運動の画策をしていた男です。しかし、幕府が薩摩藩の三田藩邸を攻撃した際、捕らえられ、身柄を拘束されました。勝海舟はその益満の身柄をもらい受け、山岡鉄舟の静岡行きに同行させたのです。
西郷の部下の益満が同行したとは言え、単身で敵の総大将の西郷のもとに乗り込んだ山岡鉄舟は、勝海舟になり代わって、徳川家の恭順の意を伝え、事実上、江戸城総攻撃の中止と江戸の無血開城を取り決めました。一般的に、明治維新の際、江戸が火の海にならずに済んだのは、西郷と勝海舟のおかげだと言われていますが、山岡鉄舟という「不借身命」の人物の存在も忘れてはならないと思います。
西郷は、静岡まで単身乗り込んできた山岡鉄舟の胆力と、腹の据わった至誠の言動に感心し、あとで勝海舟に、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末の困るのもなり。この始末人ならでは、艱難をともにして国家の大業を成し得られぬなり」と、しみじみと述懐したのです。
初対面で西郷隆盛や勝海舟の信頼を勝ち得た山岡鉄舟という人物の器は、どこに由来していたのでしょうか。彼が剣の達人であったことも無視できませんが、それよりも山岡鉄舟自身が、仏教や儒教、神道など、日本古来の伝統精神を織り込んだ武士道の体現者であったことが大きかったように思います。
山岡鉄舟は幕臣の家に生まれていますが、数えで十五歳になった折、つまり元服の折に、自らの戒めのという文書があります。数えで十五歳と言えば、今では中学三年生に当たりますが、人間の歩むべき道が簡潔な文書で見事に表されていて、江戸時代の武士の子弟の見識の高さ、道徳観の深さに改めて感心させられます。
合掌