「倫理・道徳・品格の向上」 特別寄稿
医学博士 大僧正 池 口 惠 觀

平成22年7月26日

志を抱く心(2)  ※(1)はこちら

■ 二 階 堂 進

 もう一人、道を歩いて行った人物の話を続けましょう。日本の政治家としても名を残した二階堂進は、私の高校の先輩でもあります。私の亡くなった母と古くからお付き合いがあって、私も親しくさせていただいた懐かしい方です。

 二階堂さんは、明治42年に、肝属郡高山町の旧家の二男として生まれました。祖先をさかのぼりますと、鎌倉時代にたどりつき修験寺の大林坊に土地を与えられて、近代にいたった家系です。

 当時は、交通の便が悪く、高山から志布志までは20キロほどもありましたから、二階堂さんは寮に入りました。志布志中学に通いたくないと、仮病をつかって帰省したり、親御さんをずいぶん困らせたそうです。

 しかし、お母様の一言が二階堂少年を変えました。一年生の夏休みだったと思います。進少年はどうしても寮に戻りたくなくて、ぐずぐずと家に居続けました。その時、お母様が申されました。

「進、自分に負けるのじゃないぞ」

 この言葉が胸にグサッと刺さったと、本人が回想していました。そうか、他人に負けることなんて、自分に負けることに比べれば、どうということはないの
です。

 教師の影響から英語に親しむようになって二階堂さんは、やがてアメリカへ留学しました。苦学しながら、南カリフォルニア大学を卒業しました。米国に滞在したのは、1931(昭和6)年から10年。日米関係が悪くなる一方の時で、二階堂さんはアメリカで大きな二つの収穫を得ました。

 一つは激しくなるばかりの日本排斥運動のなかでアルバイトをしながら大学に通ったことだったといいます。

 もう一つは、世界恐慌のただなかに登場したルーズベルト大統領の政治手腕を目の当たりに体験したことでした。大不況の米国を建て直したルーズベルト大統領をみて、二階堂さんは政治家を志すのです。まさに逆境が、大きな夢の土壌になったのでした。

 戦後の政界で、二階堂さんはやがて田中角栄氏の側近となります。立志伝中の宰相となった田中首相は、日中国交回復という大きな足跡を残しますが、「金権政治」とうたわれる政治とカネの問題を日本の政治に投げかけることになりました。

 ロッキード事件で逮捕されて、政界から離れ、脳梗塞に倒れて療養したまま亡くなります。その間、かつて側近だった竹下登や小沢一郎らが離反して経世会を作って、政界の激動が始まりました。そのとき、二階堂さんは田中派として17人を率いて断固として踏みとどまったのです。その情と義に敬意を払う国民は少なくなかったが、それは政治家として自らの信念に殉じた行動でした。

 ロッキード事件の当時、「灰色高官」と言われたことへの名誉回復を訴える一念はまさに身の潔白を訴える真情にあふれ、国会で信念を吐露して回復の措置
がとられた。

 金権政治の権化のように言われた田中角栄元首相の側近でありながら「清貧の政治家」と言われた二階堂さんの言葉は、若い人たちにとっては、人生の栄養に満ちています。

「蘭は幽山にあり」

 蘭の花が自生する故郷を思いながらの、二階堂さんの座右の銘です。見事な花は、人も通わない山奥に咲きます。誰かに見せようとして、咲くのではない、己の命をまっとうして生きて、見事な花を咲かせるのです。人間もかくありたいと、二階堂さんは思って生涯を生きました。

「己を尽くして人を咎めず、我が勢威の足らざるを尋ぬるべし」

 これは、西郷隆盛翁が残した教えです。現代の日本がモラル・ハザードなどといわれ、身勝手な風潮がはびこるようになったのは、みな「人に尽くす」ことを忘れた結果です。
 生まれながらのご縁で、生前は親しく謦咳に接した二階堂さんは、奥様ともども私の母と親交が深かったのです。母は父とともに行に励んだ生涯を送りましたが、二階堂夫人は、若い日から母に相談することが多かったと聞いています。

 二階堂さんは、母の智観尼から「三角形の底辺を大事にしなさいと、教えられた」と、私に語ったことがありました。それは、母がいつも言っていたことです。世の中を支える人々のことから、まず配慮して生きるようにという言葉です。それは、二階堂進という政治家の理念そのままだったのだろうと、私は思っています。

 このように先人たちの造った「道」を振り返りますと、世界に羽ばたく気概に思い至ります。

 「道」には、もう一つの意味が込められています。道は「どう」とも読んで、かつての日本では、日常のなかで誰もが心に持っていました。

  いまでは武道、茶道、華道など、特定のことにしか使いませんが、生きることそのものがじつは「どう」なのです。

 どのように生きようと、生命は後戻りができません。時間は前に前にと進んでいくのです。生まれてから死ぬまで、私たちはそれぞれの「道(みち)」を歩いているのです。

 どんなふうに歩こうか。後ろ向きに歩くよりは、前を向いて、他の人と衝突しないように気を配りながら、足を前に進めます。

 求める心とは、行動を起こす意志、克己心なのだと、先人たちが教えてくれます。

 さて、その「求める心」について、お大師さまは説きます。

「菩提を求むる者は、菩提心 を発して菩提の行を修す」

 政財界で活躍した「偉人」たちは、それぞれに「行」をしました。しかし、その成果はこの世のもの、あくまでも目に見える物質的なものになります。そこから、さらなる大きな世界を得たいとなれば、「さとり」の世界しかありません。心の奥底から満ち足りた世界、安心の世界こそ究極の生命の故郷なのです。その「さとりを求める心」を起こしたならば、人々はさとりを求める心のあり方は三つに分けられると思いますが、さとりのあり方の最も勝れた教えの意義。「勝義」です。

 人々を救い、無上のさとりを求めるすぐれた行為と願い、「行願」です。すぐれた瞑想の境地、「三摩地」です。「求める心」からすべてが始まるのですから、途中で投げだしてはいけません。最初からやり直しです。集中を続けて、求めるところを目指すのです。そうすれば、必ず結果を得ることができるのですから、三つの戒めが大切なのです。

 自分だけの利益を考えて、求めてはなりません。さとりの世界では争いはありません。誰かがよりよくて、誰かが我慢するということはありません。そんなことはありえないと思うかもしれません。

 ここでお話した近代日本の「巨人」たちも、幕末の世に生まれたときには考えられない世界に生きることになったのです。世の中が大きく変わったとき、その時の流れに合わせて、広く人々の役に立つことは何かを考えて、「巨人」たちは行を続けました。自分だけの利を考えていたのでは、あれほど大きな足跡を残すことにはならなかったろうと思います。

 たまたま、この人たちを取り上げましたが明治という新しい国造りの時代には、大きな願いを求めた偉人たちが、それこそ死に物狂いの努力を重ねました。そうした人たちの行願によって、今日の日本の基礎が築かれたのだと、私は感謝し、慰霊をしています。我欲にとらわれなくなりますと、解放された境地になります。

 私たちは、真の自由を知っているでしょうか。心のままに生きることができたらどれほど素晴らしいことでしょう。ほんとうは、そのように生きることは可能です。しかし、自由になるためには、自分自身が強くなければなりません。心身を磨いた者は自在に動き、自在な発想を持つことができます。

 剣豪・宮本武蔵は、生涯を武芸の精進に賭けました。乱世の直中を走り抜け、60回余りの仕合に打ち勝って、73歳で亡くなりました。生き抜いて、殺されることがなかった真の強者です。その武蔵は、晩年に『五輪書』を書き残しました。

 「九州肥後の岩戸山に登り、天を拝し、観音を礼拝し、仏前に向かった」と、序文に書いています。

 鍛練を重ねてきた兵法を「初めて書物に書き残そう」と決めたとき、仏さまに祈って筆をとったというのです。己の技を誇らず、仏さまとともに生きる心境を得ていた武蔵ならばこそ、三百五十年もの間、多くの人々から慕われ続けているのです。

 昨今の日本のリーダーたちの中には昨日言明したことを、翌日にくつがえす人がいます。部下も世間も、そうした人物を信頼することはありません。

  心の定まらない人は、自分自身が迷いのなかにいて、最も苦しい日々を送っているのです。自分で自分を信じられない。それを、迷いの闇といい、火宅の人と呼ぶのです。

 まずは、言ったことは、実行するよう、トレーニングをしましょう。子どもたちにも躾けましょう。行動することを怖がっている人が、とても増えました。いったい、どうしたことでしょうか。現代の日本では、行動しなくとも、ものごとを体験したような気持ちにしてくれます。パソコンゲーム、携帯電話、DVD…。身体を動かさずに知覚だけがフル回転します。ゲームセンターへ行ったことがありますか。外からのぞいただけですが、いろいろな「体験ゲーム」があるのですね。

 身体と言葉(口)とが一致することによって、意(こころ)がすぐれてはたらきます。

 中心を取る。自分の中心をしっかりと安定させますと、ほかは自由に動きます。行を精進する僧侶、武道や氣功に熟達する人、洋の東西を問わず舞踊する人、音楽家、演劇人、スポーツ選手などなど、身体の動きと心の表現を一体させようとする人は、この原理を知っているはずです。