倫理・道徳・品格の向上

 

医学博士・大僧正

明治維新

 昨年は明治維新百五十年を迎えました。歴史学会のことはよく知りませんが、明治維新の評価に関しては改めて論争が起きたり、新しい評価が出てきたりして、世の中が盛り上がったという話は、寡聞にして聞いたことがありません。

 ネット上で、薩摩側の人たちと会津側の人たちが、お互いに批判し合う状況はあったと聞きますが、マスコミで大きく話題になることはありませんでした。そういう意味では、「明治維新ははるか遠くになりにけり」という感じでした。

 私はいつも申し上げることですが、日本の戦没者慰霊の本質は、仏教の「怨親平等」思想にあると考えています。怨親平等とは、字面をそのまま解釈しますと、「怨みも親しみも平等である」ということです。この原則を戦争・戦没者慰霊に当てはめてみますと、「不幸にも敵・味方に分かれて激しい戦争をしたとしても、戦争が終わったら、敵・味方の区別なく戦没者を慰霊する。それが戦後の平和の礎になる」ということになります。

 この仏教的な怨親平等思想に基づいて、明治維新時の戊辰戦争を考えるならば、薩長側も会津藩など奥羽越列藩同盟側も、怨親平等であり、いずれの立場にたつ人も、戊辰戦争の戦没者を敵・味方の区別なく、平等に慰霊しなければならないことになります。その観点に立てば、明治維新から百五十年の月日が経っているのに、いまだに「薩長だ」「会津だ」と角を突き合わせているのは、御仏の心にかなう態度ではないのです。

 靖国神社は、幕末に発足したときには東京招魂社と呼ばれていましたが、黒船来航以降の日本の国内外の事変や戦争などで、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」として祀る神社として造られた神社です。しかし、戊辰戦争関連では、「錦の御旗」を掲げた薩長などの朝廷軍と戦った、旧幕府軍の彰義隊や新選組の戦没者や、会津藩をはじめ、奥羽越列藩同盟軍の戦死者たちは、靖国神社に祀られないまま現在に至っています。また、明治七年から十年にかけて起きた、佐賀の乱や熊本新風連の乱、福岡秋月の乱、山口萩の乱、西南戦争など、いわゆる不平士族の反乱を起こして非業の死を遂げた戦死者たちも、靖国神社に祀られていません。西郷さんも祀られていないのです。

 最近では、元都知事の石原慎太郎さんや、元建設大臣の亀井静香さんらが、戦没者を平等に祀るよう、靖国神社に対して要望しています。私は、仏教の怨親平等の心に照らして、敵・味方の区別なく英霊を祀っていただきたいと思っています。そういう立場から言えば、今回の明治維新百五十年は、理念と申し上げますか、理想と申しますか、未来に展望を開くような観点に欠けていたのではないかという感じがします。

 私は薩摩の人間ですから、薩摩の若い志士たちが明治維新をリードしたという話は、子どもの頃から耳にタコができるほど聞かされて育ちました。しかし、怨親平等の心で明治維新を俯瞰して見ますと、会津側や奥羽越列藩同盟国側にも、立派な人材がいたことを否定するわけにはいかないと思うのです。

 例えば、幕末の会津藩藩主だった松平容保(かたもり)です。容保は会津藩の始祖・保科正之(ほしなまさゆき)が遺した家訓十五か条の、忠実な実行者でした。その家訓の第一条には、「徳川将軍家には一心に忠義に励むこと。他の忠義と同じ程度の満足してはならない」という意味のことがうた謳われていました。

したがって、幕末に松平容保は体調が悪いにもかかわらず、しかも、側近たちからは「貧乏くじを引くようなものだから、断った方がいい」と言われていた、京都守護職への就任を、徳川幕府のためにという一心から受諾したのです。明治維新の六年前、文久二年(一八六二年)八月のことです。

 当時の京都では、今で言うテロリストのような存在だった攘夷派の浪士たちが闊歩しており、治安は最悪でした。しかし、京都守護職として京都入りした松平容保は、すぐに手荒な鎮圧は行わず、浪士たちの意見をよく聞く方針をとったようです。

 その後、松平容保は幕府と朝廷が融和を図るため、十四代将軍家茂と皇女和宮の結婚をフォローし、天皇家と徳川幕府との融和「公武一和」を図る孝明天皇と徳川家茂の間を取り持ったりしています。そんな中で、文久三年六月、「京都守護職に江戸に下るように」と命じる詔勅が下ります。おかしいと思って調べると、それは過激攘夷派による偽の詔勅でした。

 そのことを知り、事態を憂慮された孝明天皇は、慣例を破って、松平容保に直接、手紙を届けさせました。そこには、

 「今、守護職を東下(とうか)させることは、朕(ちん)の少しも欲しないところで、驕狂(きょうきょう)の者がなした偽勅(ぎちょく)であり、これが真勅(しんちょく)である。今後も彼らは偽勅を発するであろうから、真偽(しんぎ)を察識(さつしき)せよ。朕がもっとも頼りにしているのは会津である」

と書かれていました。これが知る人ぞ知る、孝明天皇直筆の御宸翰(ごしんかん)です。京都守護職・松平容保はこれほどまでに天皇に頼りにされていたのです。

 この年の八月、偽の勅命が相次いで出されたのを機に、孝明天皇から「国家の害を除くべし、容保に命を伝えよ」と真勅が下り、会津、薩摩など六藩が御所の九つの門を固め、長州藩と睨み合う事態となりました。そして、孝明天皇の「容保に全てを任せる」の一言で、松平容保が率いる会津藩兵がその場を鎮めました。そして、謹慎蟄居を命じられた三条実美(さねとみ)ら過激攘夷派の七人の公卿が都落ちしたのでした。いわゆる八月十五日の政変です。

 その後、元治元年(一八六四年)七月に、長州兵が御所の蛤御門を襲う、いわゆる蛤御門の変が勃発します。松平容保率いる会津兵が、泊まり込みで蛤御門を守り抜き、容保は幕府に長州征伐を進言しましたが幕府幹部の反応は鈍く、体調のすぐれない容保は憂慮を募らせるばかりでした。

 松平容保の立ち位置が急変し始めたのは、慶応二年(一八六六年)半ば頃からでした。この年の一月に薩摩と長州の薩長同盟が成立し、六月には第二次長州征伐が始まりますが、七月に入って容保がサポートしてきた将軍家茂が、長州征伐のために滞在していた大阪城で病死し、長州征伐の情勢は一変します。

 松平容保は戦況を挽回するために、自らが京都にいる会津兵を率いて、長州征伐に参戦するとして、十五代将軍に就任した徳川慶喜や幕府幹部にも出陣を促しましたが、彼らは聞く耳を持たず、容保は地団駄を踏む思いをさせられたのです。そして、この年の十二月二十五日、容保を全面的に信頼し、容保も敬愛して止まなかった孝明天皇が、突然崩御されるのです。あまりにも突然の崩御だったため、京都では「暗殺」という噂が広まったと言われています。

 容保は自分を前面的に信じ、フォローしてくださった孝明天皇との日々を思い出しつつ、「当時を追想するたびに哀痛極まりて腸を断たんとし、暗涙千行、満腔の遺憾はどこにも訴える所なく、遂に慶応二年も暮れ行きぬ」と慨嘆するしかありませんでした。

 孝明天皇の突然の崩御により、明治維新への怒涛の流れが堰を切ったように始まります。慶応三年(一八六七年)二月、松平容保は京都守護職の職を辞し、在京の会津藩の重臣たちに「国に帰ろう」と呼びかけました。徳川慶喜や幕府上層部の優柔不断ぶりにあきれていた会津藩の重臣たちは、誰一人、反対する者はいなかったといいます。

 幕府最高幹部の老中から、「今、やめられたら、何が起きるか分からない」と止められた上、幕府から「将軍家に代わり長州征伐の兵を解散するよう奉上せよ」と命令された容保は、怒りを抑えながら、「この使命はあえてお断りします」ときっぱりと拒絶しました。

 藩祖・保科正之が遺した家訓第一条、「徳川将軍家には一心に忠義に励むこと。他の藩と同じ程度の忠義で満足してはならない」の教えに背く行為でした。さすがの松平容保も堪忍袋の緒を切ったのです。

 しかし、ここから先に、容保の夢想だにしなかった過酷な運命が待ち受けていたのです慶応三年十月、徳川慶喜が大政奉還し、徳川幕府が消滅しましたが、同じ日に出された「倒幕の密勅」には、「会津宰相に速やかに誅戮を加えよ」と書かれていたのです。

 同年十二月、王政復古の詔勅が下り、朝廷から幕府側に、「天下と共に同心して、皇国を維持するように」との指示が出されましたが、会津は新政権から仇敵扱いされていくことになります。

 慶応四年(一八六六年)の年明け早々、戊辰戦争の先端が開く鳥羽・伏見の戦いが勃発します。この戦いには、まだ京都に残っていた会津軍も旧幕府側として参戦していますが、そこには藩主・松平容保の姿はありませんでした。容保は徳川慶喜の命令で、戦いの直前、慶喜らとともにいち早く大阪城を脱出し、幕府の軍艦で江戸に戻っていたのです。

 結果的に、容保は大事な家臣たちを戦場に置き去りにして、江戸に逃げ帰った形となったわけです。同年二月、容保は責任を取って藩主を辞任するとともに、鳥羽・伏見の戦いに参加した藩兵たちを慰労し、自らの行動を謝罪しながら、会津藩の名誉回復を強く訴えております。しかし、その直後、会津は勅命により朝敵とされ、徳川慶喜より江戸城への出入り禁止、江戸からの追放を命じられるのです。松平容保をはじめ、江戸詰めの藩士や婦女子など、会津藩関係者のほぼ全員は、すぐさま江戸を離れ、一週間後には故郷・会津へと帰着しました。

京都守護職の大役を全力投球で見事にこなし、孝明天皇や十四代将軍家茂らの信任も厚かった容保は、故郷にどんな気持ちで戻ったのでしょうか。会津藩の名誉回復が頭から離れなかったに違いありません。しかし、歴史に歯車はさらに容保と会津藩に過酷な試練を与えるのです。

 同年三月、新政府軍から東北地方の各藩に対して、会津・庄内両藩の討伐が命じられます。松平容保は東北の雄藩を通じて、降伏嘆願書を提出し、会津藩に同情的な東北各藩からも嘆願書が出されますが、受け入れられません。結局、同年五月、東北三十四藩からなる奥羽越列藩同盟が結成され、新政府軍と奥羽越列藩同盟軍との戦争が始まったのです。西洋式の軍備を持つ新政府軍と、旧来の軍備しかない東北諸藩の戦いでは、勝敗の帰趨は明らかです。同盟軍の弱小藩は早い段階で戦いから降り、結局、最後の最後まで新政府軍と戦ったのが、会津藩でした。

 会津藩の籠城戦は約一ヶ月に及び、会津藩では武士たちはもちろん、婦女子やこどもに至るまで、総力を挙げて戦い、多くの藩士たちが武士道に殉じて倒れていきました。その戦いの中で、白虎隊、娘子隊等々の悲劇も生まれました。

 同年九月、いわゆる会津戦争は終わり、松平容保は東京に護送され、しばらく蟄居生活を送っています。明治三年、容保の実子で幼少な松平容大(かたはる)が青森県の斗南(となん)藩知事に任ぜられたのを機に、容保も斗南藩に預け替えとなり、現在のむつ市に一ヶ月ほど居住したといいます。会津から斗南藩に移住を余儀なくされた領民たちの苦労は並大抵ではなく、中には米国に移住した人もいたといわれます。

 その後、松平容保は、明治五年に蟄居生活を解かれ、明治十三年には、徳川家康が祀られる日光東照宮の宮司となり、明治二十六年に東京の自宅で波乱の生涯を閉じています。神号、神としての号が「忠誠霊神」です。「忠誠」は孝明天皇が容保に送った御宸翰の中にある言葉だそうです。

 明治維新から六十年目の昭和三年(一九二八年)、秩父宮雍仁(やすひと)親王と松平勢津子さまの婚礼が執り行われました。勢津子様は松平容保の六男・恆雄氏の長女です。この婚礼により、会津の人たちは「朝的会津の汚名はすすがれた」と安堵したと伝えられています。

 私は、幕末の会津藩のリーダーで、孝明天皇や十四代将軍徳川家茂の信頼が厚かった松平容保の事績を評価することが、二十一世紀の真の日本再生にもつながることだと考えています。