特別寄稿 「倫理・道徳・品格の向上」
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新たなる時代の可能性 今年は戌年(いぬどし)です。十干干支で言えば、「戊戌(つちのえいぬ)」の年にあたります。十干の「戊(つちのえ)」は「草木が繁茂して盛大となっ た状態」を表し、十二支の「戌(いぬ)」は「草木枯れて死ぬ有り様」を表しています。 加えて陰陽五行思想では「戊(つちのえ)」も「戌(いぬ)」も「陽(よう)の土」にあたり、同じ気が重なっている状態です。陰陽五行では、このように気 が重なっている状態を「比和(ひわ)」といい、「戊戌(つちのえいぬ)」の場合は草木が盛大に繁茂する状態がさらに強まるか、草木が枯れて死ぬ状態が一 段と強まるか、どちらかだといわれています。 つまり、今年は十干十二支、陰陽五行的に占えば、良くも悪くも極端になりそうだということになります。できることなら良い方に傾いてほしいものです。 参考までに、前回の「戊戌(つちのえいぬ)」の年は、六十年前の昭和三十三年です。その年の主な出来事を列挙しますと、皇太子様と美智子様のご婚約、 東京タワーの完成、長島茂雄選手の巨人入団、初代若乃花の横綱昇進、一万円札発行、テレビ受信者が百万人突破、団地族という言葉が流行、インスタントラ ーメンの発売、フラフープブーム――等々です。 振り返ってみれば、前回の「戊戌(つちのえいぬ)」の年は、「もはや戦後ではない」といわれてから二年が経過し、高度経済成長の足音も間近に聞こえて きそうな、明るい話題が多かった年でした。今年は二月の平昌(ピョンチャン)で冬季オリンピックが、六月から七月にかけてはロシアでサッカーのワールド カップが開催されました。世界的なスポーツの祭典が相次ぐ中で、国際情勢が少しでも好転すれば、今年は新たな国際秩序の創造に向けて動き出す可能性があ ります。 前々回の「戊戌(つちのえいぬ)」の年は、明治三十一年(一八九八年)です。この年は政界でターニングポイントとなる革新的な出来事が起きています。 大隈重信(おおくましげのぶ)が率いる進歩党と、板垣退助(いたがきたいすけ)が率いる自由党が合同し、憲政党が結成されています。 憲政党は、薩長による藩閥政治の延長線上にあった第三次伊藤博文内閣を総辞職に追い込み、総理大臣・大隈重信、内務大臣・板垣退助というツートップ で、「隈板内閣(わいはん)」と呼ばれた第一次大隈内閣を樹立しています。この内閣は汚職事件や党内抗争が表面化して、わずか四ヶ月で崩壊しています が、日本に政党政治が根づくきっかけとなった内閣として位置づけられています。 「戊戌(つちのえいぬ)」は音読みでは「ぼじゅつ」と読みます。中国、当時の清国(しんこく)では明治三十一年(一八九八年)の戊戌の年に、前皇后の 西太后と、後に中華民国初代大統領となる袁世凱(えんせいがい)ら保守派が結託して、光緒帝(こうしょてい)の支持のもとに憲法制定、議会制度導入を目 指していた大改革を挫折させるクーデターを起こしました。戊戌の年に起きたクーデターですから、「戊戌の政変」と呼ばれました。政変後、改革派の幹部官 僚六名が処刑されています。 この「戊戌の政変」によって清国はいよいよ崩壊過程に入り、翌年の清国軍と列強が北京で衝突した「義和団事件」を経て、清国は急速に国家としての体制 を維持できなくなり、やがて孫文らによる中華民国の樹立へと雪崩れ込んでいくわけです。 こうして見ますと、日本でも中国でも、一八九八年の戊戌の年に新しい政治の萌芽が芽生えてきていることがわかります。その意味では、今年あたり、安倍 長期政権後を睨んだ新たな動きが表明化してくる可能性があります。 さて、今年は平成三十年という区切りの年であるとともに、明治維新百五十年という記念すべき年でもあります。明治維新百五十年を盛り上げるかのよう に、NHK大河ドラマは西郷隆盛を主人公にした『西郷どん』であります。「西郷どん」を『せごどん』と呼ばせるのは、林真理子さんの原作に準拠したもの ですが、全国の視聴者になじんでもらえるかどうか、若干心配な部分もあります。しかし、西郷さんは、『女城主・直虎』の主人公・井伊直虎よりは桁違いの ビッグネームですから、それなりに視聴率もあがるのではないでしょうか。 明治維新百五十周年と、大河ドラマ『西郷どん』のスタートに合わせて、改めて西郷さんにスポットライトが当るようになっています。年末に発行された 『正論』二月号には、新保裕司(じんぼゆうじ)さんという文芸評論家の「西郷隆盛の『凡人の道』に惹かれた「天才」という一文が掲載されています。 ここで言う「天才」とは、今から四十七年前の昭和四十五年十一月二十五日、現在は防衛省となっている陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、玄関のバルコ ニーから自衛隊員たちに、憲法改正のための決起を呼びかけた後、割腹自殺を遂げた、三島由紀夫のことです。 三島は自決に先立つ二年半前、識者の寄稿を週一回づつ掲載した産経新聞の「明治百年を考える」シリーズに、上野公園に立つ高村光雲作の西郷さんの銅像 に語りかける形の、「銅像との対話」と言う一文を寄せていました。そこで三島は、冒頭、「西郷さん」と呼びかけながら、次のように書いていたのです。 《明治の政治家で、今もなお「さん」づけで呼ばれている人は、貴方一人です。その時代に時めいた権力主義者たちは、同時代人からは畏敬の目で見られた かもしれないが、後代(こうだい)の人たちから何ら懐かしく敬慕されることがありません。あなたは賊として死んだが、全ての日本人は、あなたをもっとも 代表的な日本人としてみています。》と。 そして、三島はこれまで、自分は西郷さんがなぜ人気があり、偉いのかがよく理解できなかった。西郷さんの心の美しさの性質がわからなかった、と告白し ながら、西郷さんの人気の秘密、心の美しさの秘密を、次のように解き明かしているのです。 《あなたの心の美しさ……それは、日本人の中にひそむもっとも危険な要素と結びついた美しさです。この美しさをみとめるとき、われわれは否応(いやお う)なしに、ヨーロッパ的知性を否定せざるをえないでしょう。 あなたは涙を知っており、力を知っており、力の空しさを知っており、理想の脆(もろ)さを知っていました。それから、責任とは何か、人の信にこたえる とは何か、ということを知っていました。知っていて、行いました。 この銅像の持っている或るユーモラスなものは、あなたの悲劇の巨大を逆に証明するような気がします。 この下りを読んでいますと、三島さんが西郷さんの銅像の下にひざまづき、涙をにじませながら語りかけているような気持ちが伝わってきます。そして、三 島は最後に、銅像の西郷さんが三島に語りかける、以下のような意表をつく場面でこの一文を閉じています。 《三島君。おいどんはそんな偉物ではごわせん。人並みの人間でごわす。敬天愛人は凡人の道でごわす。あんかにもそれがわかりかけてきたのではごわせん か?》 三島由紀夫の「銅像と対話」という一文を改めて取り上げた新保さんは、三島を「天才中の天才」と認めながらも、その三島が西郷さんの「凡人の道」に傾 倒するに至ったのは、「天才」の華麗な言動よりも「凡人の道」の方が畏敬すべきものであるという逆説を、三島が理解しかけていたからだとし、それこそが 三島が真の「天才」だった証(あかし)だと結論づけておられます。 そして新保さんはさらに、その三島の気づきは、勝海舟や大久保利通のような「政治的人間」に関心を持っていた評論家の故江藤淳さんが、晩年に西郷さん に没入していき、『南州残影』を書き残したことと通底すると指摘されています。 『南州残影』は平成十年に出された本ですが、江藤さんはその年に奥様をがんで亡くされ、その翌年に自らを「形骸」と表現して自殺されていますか ら、『南州残影』は江藤さんの遺書と言っても過言ではありません。同書は、西南戦争の経過を追いつつ、西郷さんが決起にいたった心情をお推しはかり、最 後に西郷さんはなぜ後世の日本人に愛され続けているかを思索する形になっています。 そこで江藤さんがまず指摘されていたのは、西郷さんが決起した背景には、「国が亡びることへの、国を亡ぼそうとしている者たちへの人民の怒り」があっ たという点です。「黒船を撃ち攘(はら)い、国を守ることこそ、維新回天の大業(たいぎょう)の目的だったのではないか。しかるに今や……自らの手で日 本の津々浦々に黒船を導き入れ、国土を売り渡そうとしているではないか。西郷はそれが赦せない。しかるが故に立ったのだ」と、江藤さんは書いています。 要するに、江藤さんは、西郷さんが決起したのは、天皇や天皇の政府を超えて、日本という国家を護る大義のためであり、西洋人に侮(あなど)られ、新政 府の高官たちに喰い物にされて、亡国の危機に瀕死している日本に殉ずること以外に、西郷さんの「条理」はなかったということです。西郷さんは自らが壊れ ゆく国家に殉ずることによって、日本という国家を滅亡の淵から救い出さなければならぬと考えていたというのが、江藤さんの視点でした。 『南州残影』の中に、最初は無謀な挙兵に疑問を抱きながら、結局、西郷さんと運命を共にした薩摩の軍人・永山弥一郎の独白が出てきます。 《その崩壊と頽落(たいらく)を、死を賭して防がねばならない。そして滅びへの道を選び、死を賭(と)してそれを防ごうとした者どもがいたという事実 そのものによって、国の崩壊を喰いとめねばならない。何故なら、このように死んでいった人々の記憶は、かならず後世に残るからである。死者たちの記憶を 留めた後世が、何らの記憶すら持たぬ後世とは違うことはいうまでもない。ならば後世に記憶となるために死のう。西郷先生を一人で死なせるわけにはいかな いではないか。》 江藤さんは西南戦争における賊軍、西郷軍のこの精神は、後の帝国陸軍の精神を模範となって、帝国陸軍は死と滅亡に向かって進んでいったのだ――と推論 されています。 最近、明治維新前後の歴史の見直しを迫る本が相次いで出版されており、従来の薩長中心の史観に立てば、薩摩の西郷さん、大久保さん、長州の桂小五郎、 高杉晋作、伊藤博文、土佐の坂本龍馬などは、明治維新の英傑でありますが、最近の見直し史観では、それらの英傑は単なる「テロリスト」と位置づけられて いるのです。 例えば、西郷さんの場合、大政奉還が話し合いで成立したあとも、徳川幕府を武力で倒すために、西郷さんの指揮下にあった赤報隊を江戸で暴れさせ、幕府 側を挑発して、鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争に持ち込んだ張本人として位置づけられています。 約二百七十年続いた徳川の幕藩体制を解体し、天皇中心の王政復古を目指すわけですから、その改革は並大抵のエネルギーでは成し遂げられません。島津斉 彬公の薫陶を受けた若き日の西郷さんが、新しい世の中を開くために、多少の無理を押し通したことがあったかも知れません。 しかし、西郷さんは戊辰戦争の末期、庄内藩を制圧した際、寛大な措置を行い、庄内藩士を感動させています。明治維新後に、西郷さんが一時、鹿児島に引 き籠ったとき、庄内藩主とともに多くの旧庄内藩士たちが鹿児島に向かい、西郷さんの門弟となって、西郷さん遺訓を書き残したというエピソードもあります。 また、山形県鶴岡市には庄内藩の藩校「致道館(ちどうかん)」が、ほぼ原型をとどめる形で残っていますが、その廊下には旧庄内藩主酒井家の十六代当 主・酒井忠良氏が、昭和二年に揮毫(きごう)した特大の「敬天愛人」の扁額が掲げられています。先ほどの三島由紀夫の一文にも出てくる「敬天愛人」(天 を敬い人を愛す)は、西郷さんがモットーとした言葉であります。 合掌 |