特別寄稿「倫理・道徳・品格の向上」
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時代の変わり目 平成三十年がスタート致しました。今年の年明けは、昨年後半には一触即発状況にあった北朝鮮の核・ミサイル問題が、韓国の平昌で開催される冬季オリンピックが北朝鮮と韓国の南北共同出場となったためか、一般的には静かになっており、政治・経済的には予想外に静かな幕開けとなった印象があります。 ただ、全国各地を襲っている記録的な豪雪、異常低温は、日本列島を震えあがらせていますし、活火山としてはノーマークだった、群馬県草津温泉近くの本白根山の突然の噴火は、改めて火山列島日本の恐ろしさを見せつけました。その後、樹氷で有名な蔵王山でも火山性微動が観測され、噴火警戒レベルが1から2に引き上げられました。東日本大震災以後、荒ぶる自然が猛威を振るっている感が否めませんが、今年も引き続き、台風、地震、噴火には注意が必要でしょう。 ところで、今年の日本社会の動静について、私がもっとも注視していることは、「時代の変わり目」ということです。来年四月三十日に今上陛下が退位されるのに伴い、翌五月一日に現在の皇太子殿下が天皇陛下に即され、新しい元号がスタートします。ひとくちに「時代の変わり目」といっても、日本という国にとっては、天皇陛下が代わり、改元が行われるという変わり目は、単なる変わり目ではありません。できることなら、青天白日の状況のもとに、国家・国民が一体となって、粛々と新しい御代を迎えることが求められるのです。新しい元号がいつ決定されるのかについては、政府が「あまり早く決定すると、新元号スタート時に盛り上がらなくなる」との懸念から、「来年に入ってからでもいい」という姿勢のようですが、私は元号については、そこに込められる理念、希望、誓願の内容が、国民の心にストンと落ちるかどうかが大事だと考えます。 ちなみに「昭和」の出典は、『書経』の中の「百姓昭明(ひゃくせいしょうめい)、協和万邦(きょうわばんぽう)」という言葉から取ったもので、「国民の平和と世界の共存繁栄」を願ったものでした。また「平成」の出典は、『史記』の中の「内平(うちたいらかに)外成(そとなる)」という一節と、『書経』の中の「地平(ちたいらかに)天成(てんなる)」という一節から取ったもので、「内外、天地とも平和が達成される」という意味が込められていました。「昭和」「平成」の出典、意味をひもといてみますと、改めてそこに込められた意味の崇高さに頭が下る思いが致します。 そういう意味では、新元号の決定時期に関しては、「盛り上がり云々(うんぬん)」はそれほど考える必要はないのではないかと思います。むしろ元号はさまざまな仕事に関わりますから、できれば早めに決定し、周知徹底を図った方がいいのではないかと思います。約二百年ぶりに生前退位をご決断された今上陛下も、ご退位に伴う混乱は最小限にとどめたいとのお気持ちではないかと拝察します。 私が今年の日本社会の動静に関して注視しているのも、今年から来年にかけて、生前退位が大きな混乱なく平和な中で粛々と行われることを願っているからに他ありません。しかし、昭和、平成という直近二回の改元前後の社会情勢を振り返って見ますと、決して平穏な時代状況のもとで新しい御代を迎えられたわ けではないことがわかります。 昭和が始まったのは西暦一九二六年十二月二十五日でした。つまり、大正十五年十二月二十五日に大正天皇が崩御され、昭和がスタートしたわけですから、昭和元年は一週間足らずで終わったわけです。したがって、事実上、昭和がスタートしたのは昭和二年からでした。 この昭和二年という年は日本経済にとって大変な年でした。ニューヨーク株式市場の大暴落で、世界大恐慌が始まったのは、二年後の昭和四年十月のことですが、日本ではすでに昭和二年に金融恐慌が起きています。その発端は、大蔵大臣の「東京渡辺銀行が破綻」という失言でした。東京渡辺銀行は休業に追い込まれ、東京近郊の小さな銀行では、預金者が預金をおろすために銀行に殺到する、取り付け騒ぎが起きたといいます。 急きょ日本銀行が中小銀行に対して非常貸し出しを実施しましたが、休業に追い込まれる銀行が続出し、その多くが大銀行に合併されたり、買収されたり、金融界は大騒動に陥りました。その騒動の中、当時日本一の総合商社だった鈴木商店が、メインバンクの台湾銀行に対して新規貸出停止命令が出されたために、新規融資が受けられず、破産する事件も起きています。鈴木商店の破産から一週間後には、第六十五国立銀行を前身とする、神戸に本店を置く第六十五銀行が、鈴木商店の破産の影響で休業に追い込まれ、日本の株式相場は大暴落を余儀なくされました。 台湾銀行に対する救済策は国会でも審議され、台湾銀行救済緊急勅令案も作られましたが、枢密院で否決され、当時の第一次若槻礼次郎内閣は総辞職し、台湾銀行は台湾にある店舗を除き、全支店休業に追い込まれ、銀行取り付け騒ぎは全国に波及しました。その結果、若槻内閣の後を受けた田中義一(ぎいち)内閣は、金銭債務支払い延期緊急勅令を発し、三週間のモラトリアム(債務支払い猶予令)を実施して、銀行を一斉休業させることで、何とか急場乗り切りを図ったのでした。 この年の七月、芥川龍之介が「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」を理由に自殺していますが、事実上、昭和のスタートの年だった昭和二年は、金融恐慌による経済混乱が多きな社会不安となって、先のみえない閉塞状況が広がった年だったのです。 また、この年の六月末には、外務省・陸軍省・関東軍首脳が、対中国政策を決定するために、「東方会議」を開催し、さらに九月には、中国遼東半島の旅順で、外務省・軍関係者が満州問題を協議する「大連会議」を行っています。これらが、当初は「満州某重大事件」と呼ばれた翌年の関東軍による張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件につながり、やがては満州事変、満州国建国、日中戦争へとつながっていったのです。 要するに、昭和二年は日本社会が閉塞状況に陥り、その突破口を露骨に満州に求め始めた年だったいうことができます。二十五歳の若さで即位された昭和天皇にとって、この国難状況の打破は大きな難問だったに違いありません。即位から三日後に、総理大臣経験者の西園寺公望(さいおんじきんもち)に、「元老として輔弼(ほひつ)せよ」と命じられたのも、国難克服への強い気持ちを奮い立たせようとされたのに違いないと、私は感じるのであります。 では、平成のスタート時はどうだったのでしょうか。昭和天皇が崩御されたのは西暦一九八九年一月七日でした。昭和のスタート時とは逆に、昭和最後の年、昭和六十四年はわずか一週間で終ったわけです。昭和の末期、日本は戦後の高度経済成長のあだ徒ばな花も言うべき爛熟のバブル経済に踊り、昭和が終わったときには、すでにバブルははじけていたにもかかわらず、東証株価は騰がり続けていました。 実際、事実上昭和最後の年となった昭和六十三年には、東京ドームの完成、瀬戸大橋の開通といった、高度成長時代の名残ともいえる出来事があり、日産自動車の高級車「セフィロ」が、「くう・ねる・あそぶ」のキャッチフレーズとともに人気を呼ぶなど、バブル狂乱の真っ最中にありました。 しかし、この年の六月に川崎市でリクルート事件が表面化し、九月に昭和天皇が吐血重篤となられる中で、リクルート事件は政財官界に波及し、元号が平成に変わった平成元年には、リクルート社創業者の江副浩正元会長、NTTの真藤恒初代会長をはじめ、元文部事務次官、元官房長官が逮捕されたり、在宅起訴 されたりして一大疑獄事件となったのは、まだ記憶に新しいところです。 当時の竹下登内閣は、新元号「平成」を定め、消費税三パーセントの導入を決定して、政権基盤を固めたかに見えていましたが、リクルート事件に直撃されて、平成元年六月に、在任期間約一年半で総辞職を余儀なくされています。後を継いだ宇野宗佑内閣は発足早々、週刊誌に女性問題を書かれ、直後の参院選に 惨敗して、わずか五十日で退陣の憂き目を見ることになります。 平成元年の出来事で忘れてならないのは、この年からオウム真理教が絡む事件が表面化していることです。坂本堤弁護士一家殺害事件が起きたのは、この年の十一月四日ですが、当時はまだそれがオウム真理教の犯行であることは、ほとんどの国民の知りえるところではありませんでした。マスコミでも、「サンデー毎日」が前月の十月から「オウム真理教の狂気」と題する批判キャンペーンを始めたばかりでした。 こうした中でも、バブルの夢が覚めやらないままに東証株価は騰がり続け、平成元年十二月二十九日の大納会で、史上最高値の三万八千九百円台を記録したのでした。翌年の大発会から株価は下落に転じ、バブル崩壊による「失われた二十年」が始まり、日本は第二の敗戦」状況の中で精神的荒廃が進み、深刻な亡国現象にさいなまれることになったわけです。 こうして昭和、平成のスタート時の社会情勢を振り返ってみますと、両方とも決して順風満歩の中で新しい天皇陛下を戴き、新しい御代が始まったわけではなかったということができます。戦前と戦後では、天皇陛下の位置づけも違いますから、一概には言えないことかもしれませんが、天皇陛下が国民統合の象徴として、国家・国民の幸せを願うお立場だとすれば、少しでも平穏な時代状況のもとで即位していただきたいと、私は願うのであります。 そういう気持ちで昨今の日本の状況を眺めてみますと、残念ながら、今上陛下に後顧の憂いなくご退位いただき、皇太子殿下に心おきなくご即位いただくには、決して十分な状況ではないような気がします。 安倍総理が「地球儀を俯瞰する外交」で世界を飛び回っておられますが、国際情勢は依然として平和とは遠い状況であります。国内政治は安倍長期政権が続いていますが、国会では相変わらず不毛な論戦が展開されており、与野党ともに国家議員の資質を疑う場面が少なくありません。 日本経済の再生を目指すアベノミクスも、大企業の業績は過去最高を記録していますが、国民の財布のヒモは締まったままで、アベノミクスの恩恵が全国津々浦々まで至っていないのが実情です。また、学校でのいじめや凶悪事件が続くなど、日本社会のモラルハザードも相変わらず深刻な状況であり、自然災害も頻発しています。昭和も平成もそういう苦難の道を乗り越えてきたからこそ、今日の日本があるといえば、それはそうであります。しかし、本質的に国民の多くは、日本が国民の象徴である天皇陛下とともに、世界に誇れる国家であり、国民でありたいと願っているのであります。できることなら、そういう気持ちを共有しながら、真の日本再生を成し遂げていきたいと、私は願うのです。 そこで私が想起するのは、アインシュタイン博士の逸話です。大正十一年に来日されたアインシュタイン博士は、約四十日間、日本に滞在した後、次のような言葉で日本を絶賛されました。 「世界は進むだけ進んで、その間、幾度も闘争が繰り返され、最後に闘争に疲れる時が来るだろう。そのとき、世界の人間は必ず真の平和を求めて、世界の盟主をあげねばならぬときが来るに違いない。その世界の盟主は武力や金力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、もっとも古く、かつ尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まって、アジアに帰り、それはアジアの高峰、日本に立ちもどらねばならぬ、我らは神に感謝する。天が我ら人類に日本という国を造っておいてくれたことを」 アインシュタイン博士は単なる社交辞令ではなく、日本という国に、天皇と国民が一体となって「まことの道」を歩もうとする真摯な姿を感じ取って、日本が「戦争の世紀」の後に来る「平和の世紀」に、世界の盟主になり得ると示唆されたのです。 アインシュタイン博士が来日された大正十一年といえは、第一次世界大戦が終結し、パリのベルサイユ宮殿で講和会議が開かれた三年後に当たります。この会議では第一次大戦の戦後処理の他に、当時のウイルソン米国大統領の提案により、国際連盟の創設が決まりました。もう一つ、この会議で注目されたのは、 日本政府の代表として出席していた日本政府全権大使の西園寺公望が、人種差別撤廃法案を提案したことです。 当時すでに、アメリカで日本人移民排斥をめぐる対日差別法案が進められていたために、その対抗上、日本が講和会議の席で人種差別撤廃法案を提案したのです。投票結果は、賛成十七票、反対十一票で、可決される寸前までいきました。しかし、イギリスなどとともに反対に回ったアメリカのウイルソン大統領が、「このような重要案件は完全一致でなければならない」と意義を申し立てたことにより、不採決とされてしまったのです。後に昭和天皇は、太平洋戦争の遠因として、ベルサイユ講和会議における人種差別撤廃法案の不成立と、カリフォルニア州における日本移民排斥の二つを上げられたといわれています。アインシュタイン博士が日本を長期間訪れ、日本を絶賛された背景には、このベルサイユ講和会議において人種差別撤廃法案を提案したこともあったのかも知れません。いずれにしても、「天皇と国民が一体感を持ち、八百万の神々を大切にする国」である日本を高く評価する、アインシュタイン博士のような外国人は、決して少なくないのです。 昨今、インバウンド(外国人の訪日旅行)が急増していますが、その中の多くが、高野山をはじめとする日本各地の神社・仏閣を訪ねています。これも日本の精神、心の淵源に少しでも触れたいという気持ちからです。私たちは、今回のご退位のタイミングを捉えて、自ら日本の良質な精神・心をアピールしつつ、本来のお国柄を取り戻していかねばならないと思うのであります。 合掌 |
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