『徳川光康氏・大下英治氏・松村先生』ご挨拶


 
 徳川光康氏のご挨拶
 今日は役員会議そして年頭総会ご苦労様でございます。 また本日は松村茂夫先生の叙勲という素晴らしい功績をお祝いする日でもあります。この叙勲は天
皇陛下から直接頂く名誉でございます。
 先ほど大下先生が日本の素晴らしさ、雅さ、いいところをすべて述べてしまわれたので私の家もちょっとだけ関っています「勲章」についてお話したいと思
います。

勲章のはじまり
 当時の江戸幕府が国を護るために近代化された洋式の軍隊を導入します。これはフランス式の軍隊ですが、その将兵を激励また功績を称えるために従来の感状ではなく、フランス式の勲章制度を導入致しました。それで名称もついていました。葵勲章といいます。図案もできていまして葵紋の周りを二頭の龍が取り
巻いており、そこに旭日がかかっているという勲章でした。図案が出来上がって作成というときに徳川慶喜による政権返上、これによってこれは中止になりま
す。ちょうど同じころ薩摩がやはり勲章の作成を考えていました。ただ薩摩は1国の代表ではないので、琉球王国と手を結びまして薩摩琉球国勲章を作成しこ
れを当時フランスのパリで開催されていた万博に出します。そしてナポレオン三世をはじめ出席していた政府の要人にこれを配りました。これがわが国におけ
る勲章第一号とされています。

戦前と戦後の勲章
 ですが、明治の新政府が樹立したことによってこの勲章も廃案になりました。当時は日本の新政権も諸外国から国を守る為に富国強兵策をとって徴兵を行いました。徴兵によって集められた将兵の武勲を称えるため、やはりヨーロッパ式の勲章を導入します。当時の勲章制度というのは大日本帝国憲法からも国の法律からも除外された独立した存在です。なぜならこれは勅命とそれから太政官の二つによって実施されていましたのでかなりの権威があります。当時の勲章ほとんどが軍人に授与されていましたが民間の議員にもなかったわけではありません。この勲章、勲一等から勲八等に分かれていましたが、この勲位に応じて位階(いかい)という、従三位(じゅさんみ)とか、従五位(じゅごい)の下(げ)というこれも授与されました。年金もついていたんです。この年金も勲位ご
とに額が異なりますが、殆どきちんと生活していけるような額だったようです。それともう一つ特出するのが上位の勲等については叙爵(じょしゃく)という
栄典がついていました。この叙爵というのは爵位を与える。男爵とか子爵とか、これを与えられるとその場から貴族に列します。普通の人が突然今日から貴族
になるということです。それほど大きな権威をもった勲章でした。ですが日本の戦争での敗戦によって大きくこの勲章制度も変わってしまいましたが、新しい
国の憲法または法律、これに縛られることのない当時のままの権威をもってきております。ただ軍国色の強い勲何等とか位階とか貴族制度が廃止されましたから叙爵ということもなくなりました。また新しい戦後の政府、金銭的にもかなり困惑していましたし、また国民年金という新たな構想もありましたので、この
叙勲に対する年金というのも廃止されました。ですが明治の時代に付託された太政官通達及び勅令による実施というのは今現在も変わっていません。一切法律の権限を受けないんです。そして天皇陛下が直接下さる。

叙勲決定までの厳しい審査
 叙勲を拝受するには私達が想像する以上にかなり厳しい審査があります。基本的な審査基準は超えるにしても、そのお一人お一人を各省庁の大臣クラスがまず推薦します。この推薦された方々は、そのまま内閣に上げられ、内閣では内閣府で内閣総理大臣のもと、その栄誉が審査されます。それと同時に名を上げられたご本人のこれまでの交友関係、そういったものを各地方自治体が今度調べ上げるんです。この交友関係とか所属する会社、それに過去の賞罰、賞はいいにしても罰については、チョットした駐車違反、スピード違反の回数まで調べ上げられます。それと後は所属会社がどんな会社なのか、どんな研究機関か、どんな団体なのか、松村先生で当てはめれば、日本青年社などが調査対象です。そしてそれに合格すると今度は内閣の閣議決定を経てご本人の功績の内容と調査結果などが天皇陛下に上奏されます。陛下はそのお一つおひとつを審査し陛下が決定して叙勲決定となります。こんな素晴らしい名誉は他に存在するとは思えません。松村先生、再度となりますがおめでとうございます。
 そして先生の所属する団体、皆様の日本青年社、皆様もおめでとうございます。
 今日は本当に叙勲と言うすばらしい制度の中で、これからの先生の益々のご栄達及び日本青年社の皆様の益々の活動をお祈りしてお祝いとさせて頂きます。
 作家大下英治氏のご挨拶
 私はこの会で挨拶すると改めて今年も明けたなという感じがします。
 私は今回、三島由紀夫の「天皇と割腹」という本を書いていますので色々なことを思い致しますが、三島由紀夫を書こうと思ったのは、実は私が広島大学に在学中の国文の先生が清水文雄と申しまして三島由紀夫の先生だったんです。その三島由紀夫の先生が学習院にいたときに少年がいたんです。それが三島由紀夫だったんです。彼は平岡君というんですが、「先生、私は親父が官僚ですから親父が小説を書くのを嫌うのでペンネームで書きたいと思うのでペンネームをお願いします。」と言ったんです。そしたら「おおいいよ」と言って、清水文雄先生が三島駅を降りたら、ちょうど富士山に雪が降っておりました。それを見て「三島ゆきお」と名前をつけたんです。だけど三島由紀夫が単なる「ゆきお」だとあまりにロマンチックすぎるので「ゆきお」だけを変えさせてくれと言うんで三島由紀夫とつけたんです。その先生は日本浪漫派という感じで、日本の戦前に天皇を戴いた和歌を詠む集団の中の人たちの一人だったんですが、その先生が年を取って退官講義をするんですけど、今日が最後の講義だというとき、古今和歌集の大家であったこの先生は、「私の思いを皆さんに伝えたい」と言っ
て黒板に向いました。それで何を書かれるかと思っていたら「雅」と書きました。「雅」というのはご存じのように和の美しさが「雅」なんですけど、都の「美」というイメージもありまして、都の美、すなわち天皇のことをいうんですが、「雅」と書きましてですね、次に人と書こうと思ったとき、人生最後の講義ですから、力を込めすぎたためにチョークがパチッとはじけました。先生はそのはじけたチョークを取りに行って黒板に人と書いたので、次にどう書くのかなと思っていたら「人を撃つ」と書いたんです。撃つとは射撃の撃つです。「雅が人を撃つ」、雅と言うのは単なる美しさだけでなく、そのような激しさを含んでるよと言って「雅が人を撃つ」と書きました。   
それから何年後に三島事件が起こります。その時それは三島事件を予感したような言葉だなと思いました。その先生は広島大学出身でした。私は自分の大学について思いを致したことはないんですけが、そこにもう一人いるんです。広島大学というのは全部の文芸文化というのを出すんですが、日本の天皇制を中心にした歌を詠んだ連中とたまたま広尾で会ったんですけど、その内に「蓮田善明」という人がいました。この蓮田善明という人が、やはり物凄く歌詠みで天皇の歌をつくらせたら凄い人なんです。その人は戦争でシンガポールへ行きました。シンガポールで日本は戦争に負けましたが、負けたとき上司が言ったのは、「これからは天皇なんか誰もいう人はいないよ、これからは蒋介石だ、ルーズベルトだ、もう日本なんて終わったんだよ、天皇なんか誰もいわないよ」とみんなの前で言ったんです。その時、蓮野善明は「何を言ってる、日本国家は天皇が永遠に続くんだ、不届きなことを言うんじゃないと」と言ってピストルでその上官を撃ち殺したんです。その撃ち殺した拳銃の中に込めたのは鉄砲の弾ではなくて、彼が戦争に行くときに皇居の前に行って皇居にある石を持って半分を妻に渡して、半分は自分が持っていたんですが、その石を拳銃につめて上官を撃ち殺したんです。そのとき最後の言葉は「皇国日本のために私は捨石にならん」と、その蓮田善明が、自分たちは大人だったんですけど、少年がそのグループに入ってきました。それが三島由紀夫だったんです。三島由紀夫を見て「俺たちの後は君が受け継ぐんだから頼むぞ」と言って死んでいきました。
 三島由紀夫というのはご存じのように「美徳のよろめき」だとか「潮騒」だとか結構優しい艶めかしいものを書いたんです。しかし年をとるにしたがって彼が死ぬ前にいったことは「日本という国家は何という国家か、空っぽだ、ニュートラルだ、何にもいらん、小銭を稼ぐのがうまい、中心の芯のない国家になったじゃないか、こんなことでどうするんだ、怒りのままで彼はその最後になって自分がやるべことは何だったのか、蓮田善明先生のいったことを約束したのではないのか、俺は今になってこの日本という国家の中心を俺が作らなければいけない。日本文化は俺が最後だ」といって三島さんはあのような事件を起すんですけど、その時三島さんが一番言いたかったことは、日本の天皇とは何なんだと、天皇とは何時世もこの「みずほの国」の当然の、稲が採れました。日本の中心である米が採れたことを神様に言うことが出来る唯一の神主に近い宗教的一族であるということです。
 ご存じの様に中国は清の帝国は始皇帝を劉邦というヤクザ者みたいな男が来てやっつけましたが、そしたらそれが天皇になれるんです。強いやつが天皇になれる、日本が中国と同じシステムだったら日本は織田信長が天皇です。秀吉も天皇、家康も天皇です。だけど日本だけはあの織田信長すら天皇になれないんです。
それはなぜかといったら今言った様に「みずほの国」で稲が採れました、この国の豊穣を報告することが出来る唯一の一族なんです。それと同時にもう一つ私は言いたいんですけど、三島由紀夫が何で自殺したのかということの中心部分に関わるんですけど、日本の天皇は歌詠みなんです。歌を読まれる、あるいは歌を編纂してやる、国民と歌を通じて一体化している、明治天皇すら日露戦争の時、『よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風のたちさわぐらむ』と歌で表現されました。陛下が言葉を出すことはないんです。陛下は歌で表現をする。そういう面で言うと明治天皇は十万ほど歌を作りました。大正天皇は八千です。昭和天皇は一万作っています。そういう面でいうと日本と言う国ほど美しい歌が「雅」になる、そういう歌というのもが国の中心にいる文化は日本しかないのです。
 そういう面で三島由紀夫は日本古典と言う意味を込めて訴えたい、そういう意味でもう一つ、三島さんがおそらく憲法改正が取りざたされる今に生きていたら何を言いたいかといったら、皆さん御存じのように神事、祈りなど、祈ることは私的行為に入っていて国家行為ではないんです。公的行為でもないんです。
勝手にやってることなんです。でも、それはやはり天皇制にとって非常におかしいので、そういう面で言うと、三島由紀夫がこう言ったんです。
 「あと一〇〇年したら俺のやることがわかるよ、あるいは二〇〇年したらわかるよ」と言ったんです。それは何かというと、日本という国が益々もって日本国家の中心について思いを致すことがなくなるからです。
 だからもっと言うと、日本は非常に寂しいことですけど大変なことなんですが、一番の私のテーマとして少子高齢化といっているんですが、三〇〇年したら日本人は四〇〇万人になることが統計で出てるんです。そういうことを考えると、やはり、いろんなことを含めながら日本民族がそして日本民族の中心が失われないように、なんであろうがそういう「雅」になる日本民族の本当の意味を日本青年社の皆さんに受け継いでいって頂きたいと思っています。皆さん宜しくお願いします。
      松村先生ご挨拶
 皆さんこんにちは、身も心も日本青年社と皆さんに惚れ込んでいる松村茂夫でございます。
 いつも本当にお世話になってありがとうございます。今日は叙勲で陛下から戴いた額をお持ちしました。この真ん中に大日本国璽という御印がございます。
これが天皇陛下の御印でございます。私達が大切にしている教育勅語、御名御璽でございます。御璽と言うのがこの大日本国璽でございます。これが一番大切な素晴らしい御印でございます。これは陛下の御印でございます。
 扨、それでは私全ての飾りを捨ててただただ松村茂夫の真心を率直な心を昨日書いてまいりましたのでそれを読ませていただきます。
 『建国以来二六七八年、一二五代の頂点におわします天皇陛下様、世界でもっとも尊いお方、天皇陛下様から私松村茂夫は、旭日小授章を拝受いたしました。もったいなくて、ありがたくて、身の震える思いでございます。この受章は偏に私松村茂夫に縁がありゆかりのある人々、皆様にいただいたものであります。日本青年社の皆様がいただいたものであります。天皇陛下様がこの受章を通して皆様にねぎらいと慈(「いつく」しみを賜ったものでございます。このことを一人ひとりに伝えよという大身心と拝察致しております。なんと清々しく素晴らしい事でございましょう。これからはなお一層力を合わせ、知恵を集めて大切にし合って家族のため、日本青年社のため地域のため、国の為にお役に立つようたゆみない努力を続けてまいりましょう。なお一層人様のお役に立って力強い人生を歩みましょう。それがこの受章にお応えすることであり、光輝かせることでもあります。』以上でございます。有り難うございます。