「倫理・道徳・品格の向上」
特別寄稿
医学博士 大僧正 池 口 惠 觀
『西郷どん』

来年は明治維新百五十年という記念すべき節目の年を迎えます。NHK大河ドラマも西郷隆盛を主人公とする『西郷どん』であります。
最近は明治維新百五十年を前に薩摩・長州や西郷さんを批判する書物も出されてるようですが、わが鹿児島では西郷さんの人気は依然として群を抜いており大河
ドラマ『西郷どん』を心待ちしている人が大半です。

 また、雑誌などで、現在の政界や経済界のリーダーたちに、「明治維新以降の政治リーダーの中で尊敬するリーダー像」についてアンケートをとると、いまだに西
郷さんがトップに挙げられるケースが多いようです。

 西郷さんはたしかに明治維新の立役者の一人ですが明治六年の征韓論問題を機に参議、陸軍大将などの要職を辞し鹿児島に退いています。征韓論は、西郷さ
んが朝鮮に軍隊を派遣することを主張し、それが認められなかったため政府の要職から辞したと受け止められているようですが、西郷さんは朝鮮出兵を否定し、自
らが遺韓使節となって朝鮮に渡り「開国」の必要性を説得することを望んだのであり、それが岩倉具視さんや大久保利通さんに否定されて辞職に追い込まれたとい
うのが真実に近いと言われています。

 もし仮に、西郷さんが本当に強硬な征韓論者であったことが事実であれば、西郷さんが二十一世紀まで「尊敬するリーダー像」のトップであり続けることはなかっ
たはずですし、後に韓国の金大中大統領が、西郷さんの「敬天愛人」(天を敬い人を愛す)思想を称揚することもなかったろうと思います。

 たしかに西郷さんは幕藩体制を倒すために、江戸に赤報隊を組織し、そのゲリラ的活動で江戸市中を混乱に陥れ、幕府側の江戸薩摩藩邸焼き討ち事件を誘発
させて、戊辰戦争に持ち込んだ主導者であったかも知れません。しかし江戸開城の際、勝海舟と語らい無血開城を成し遂げたのも西郷さんであります。

 明治維新を見ずに亡くなった主君・島津斉彬公の薫陶を受けて以後、二度にわたる島流しの苦汁をなめながらも主君の悲願だった明治維新を実現し、明治十年
に不平士族に担がれる形で西南戦争に決起して城山の露となって果てるまで西郷さんはやはり「知・情・意」、すなわち「知性・感性・徳性」を兼ね備えた高潔の士
であったと、私は思っています。

 「知・情・意」の人、西郷さんの真骨頂を示す逸話として、現在の山形県鶴岡市の酒井家・庄内藩と西郷さんの交流について触れておきたいと思います。幕末の動
乱期に新撰組を配下に京都御所を守っていたのが、京都守護職だった松平容保率いる会津藩だったのはよく知られていますが、新微組を配下として江戸の警護を
担当していたのが庄内藩でした。

 先ほどの薩摩藩邸焼き討ち事件は、浪人たちを集めて赤報隊をつくり江戸の治安を混乱させた薩摩藩に対して、幕府が江戸市中の取り締まりに当っていた庄内
藩、新微組に指示して報復させた事件でした。この事件の直後に鳥羽伏見の戦いが勃発し戊辰戦争へと雪崩れ込んでいきますが、会津藩や庄内藩など東北・越
後の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結んで、薩長など官軍側に必死に抵抗したわけです。

 会津藩では官軍と激戦を繰り広げた結果、少年たちで編成された白虎隊が全滅したり、武家の妻女が相次いで自害する悲劇が起きたり、領地は酷寒の地・下
北半島の斗南藩に転封され、塗炭の苦しみを味わっています。斗南藩では生活の辛さに耐えかねた一部浪士は,移民として米国に渡ったと言われます。そして、そ
のときの会津の薩摩に対する怨念は、百五十年が経とうとしている今もまだ氷解していないのが現実です。

 それに対して庄内藩はどうだったかと言えば、四千五百人の兵士のうち、二千二百人は農民や町民による兵士でしたが、藩士と領民が一丸となって官軍に抵抗
し一時は官軍も撤退を余儀なくされたと言います。このときは新微組も江戸にいた庄内藩たちと共に庄内に入り一緒に戦ったということです。しかし、会津の降伏な
どにより、奥羽越列藩同盟が事実上崩壊したため、庄内藩も会津降伏の四日後に降伏に追い込まれました。

 庄内藩は、幕府の指示があったとは言え、薩摩藩邸焼き討ち事件の実行部隊でもあり厳しい処断が下されることを覚悟していたようです。実際、当初下された処
分は、お家断絶後、戦争で疲弊した会津若松への転封、藩主の謹慎といった厳しいものでした。しかし、藩主・領民が一致団結して新政府に陳情を重ねたところ、
藩名が大泉藩に改称されたものの転封は免除されたのです。

 庄内藩に対する寛大な措置を指示したのが、西郷さんでした。そのことを知った庄内藩改め大泉藩の藩主・酒井忠宝は、明治三年に前藩主の兄・忠篤と共に、新
政府に対して、藩主・藩士七十八名の西国見学の許可を申請します。それが受理されると早速、忠篤一向は西国巡りの旅に出て一ヶ月余りかけて鹿児島へ着くと、
別組みで鹿児島入りした十五人を含め合計九十三人の旧庄内藩士が西郷さんを訪ねて弟子入りし、四ヶ月の長きにわたって鹿児島に滞在して西郷さんの講話を
聴き軍事教練も受けたと言われています。つまり、旧庄内藩の藩主・藩士たちは西郷さんの薫陶を受けるために、西国見学の許可を求めたのであります。

 西郷さんは先ほど触れたように、明治六年に征韓論問題で敗れて下野し、同年十一月以後は鹿児島に引き籠りますが、その後も庄内藩士の鹿児島行きは続き
西郷さんが西南戦争に立ち上がったときには、多くの旧庄内藩士が西郷さんと共に戦おうと九州を目指したようです。しかし、庄内から熊本・鹿児島はあまりにも遠
く、ほとんどが間に合わず途中で戻ってきたと言います。ただ、当時、鹿児島で西郷さんに弟子入りしていた二人の庄内藩士が、西南戦争の勃発と同時に西郷軍に
従軍し戦死したとされています。

 庄内藩士の西郷さんに対する絶大なる信頼の背後には、戊辰戦争後の寛大な処分に対する感謝の気持ちがあったのは言うまでもありませんが、西郷さんの「知
・情・意」を兼ね備えた高潔な人格に心酔したことも大きかったと思います。西郷さんは西南戦争により逆賊となり、名誉挽回が図られたのは、大日本帝国憲法が公
布された明治二十二年のことでした。東京・上野公園の西郷さんの銅像は、高村光雲の作品として有名ですが、明治二十二年に建設計画が決まり、足掛け十年が
かりで建造され、完成したのは明治三十一年でした。この銅像建設の発起人は、戊辰戦争時の庄内藩主・酒井忠篤が名前を連ねています。

 また、西郷さんの名誉が回復された翌年の明治二十三年には、山形県の三矢藤太郎を編輯発行人として『南州翁遺訓』という本が発行されました。明治になって
から、旧庄内藩士が相次いで鹿児島に西郷さんを訪ね弟子として聴いた講話のエッセンスを取り出し、遺訓として一冊の本にまとめたものです。西郷さんは、「敬天
愛人」「子孫のために美田を残さず」をはじめ数多くの名言、至言を残していますが、そのほとんどは、維新の戦いを経て西郷さんに師事し薫陶を受けた庄内藩士た
ちが残した『南州翁遺訓』から取ったものです。

 「文明とは正義の広く行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない」「命も要らず、名も要らず、位も要らず、という人こそ最も扱いにくい人
である。だが、このような人こそ人生の困難を共にすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である」「正道を
歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足できる交際は期待できない。その強大を恐れ、和平を乞い、みじめにもその意に従うならば、
直ちに外国の侮蔑を招く、その結果友好的な関係は終わりを告げ最後には外国につかえることになる」。

 まさに『南州翁遺訓』は、二十一世紀の現在にも活かせる金言の宝庫であります。この遺訓が紡がれたことだけでも、西郷さんと庄内藩との交流は大きな意味が
あったと言えるでしょう。

 最後に、西郷さんと庄内藩との交流が成立した背景として、鶴岡市に現在も残る庄内藩の藩校「致道館」の存在を指摘しておきたいと思います。「致道」は「致る
道」と書きますが、孔子の論語の一節「君子学んで以って道を致す」から取った言葉です。そして「致道館」では、「天性重視」「個性伸張」「自学自習」などをモットー
とした教育が行われていました。

 戊辰戦争の際庄内藩は、武士道精神に則り「絶対に略奪はしない」「食料調達の際は代金を払う」「敵の捕虜に対しても礼節を守り丁寧に処遇する」をモットーとし
て行動し、激しい戦闘の後には、何人もの僧侶を呼んで、敵の戦死者の慰霊も行ったといいます。そうした庄内藩士の振る舞いは、おそらく西郷さんも知っていたに
違いありません。庄内藩士の気高い武士道精神と、西郷さんの高潔な人格が共鳴し合ったのではないでしょうか。

 致道館の廊下側の天井下の板壁には、旧庄内藩士十六代当主の酒井忠良氏の揮毫による「敬天愛人」と大書された額が飾られており、旧庄内藩と西郷さんは
現在も強い絆で結ばれています。集落によっては、すべての家で西郷さんの肖像を飾っているところもあると伺いました。そして鶴岡市と鹿児島市は「姉妹都市」を
結んでいるということです。  いずれにしても、明治維新百五十年の来年、西郷さんが改めてどんな脚光を浴びるのか、楽しみにしたいと思います。

 合掌