世界に誇る日本の実相
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一、日本と日本人 (一)、 人類の夢、長寿大国の達成 一回限りの人生で万人共通の幸福とは健康長寿のことです。毎年発表の敬老の日の一〇〇歳老人が一万人に達し、平均寿命は八十歳が当たり前で、連続世界一の長寿国の座を守っています。 一国の民族の平均寿命の長短は国力、活力の総合指標の確かな表現です。この点日本が飛びぬけた長寿国になったことは、国力の成果として大いに誇ってよいことです。 人類の寿命が延びたのは、戦後医学が発達し衛生思想が普及し、所得が向上したからだと考えられています。それなら医学や経済の先進国である欧米人はすべて伸びるべきなのに、日本のみが更に突出したのは何故でしょう。 それは日本民族がこの温暖多湿の風土の中で、何千年も暮らしているうちに、先祖代々言い伝えてきた衣食住の伝統的固有の生活スタイル、つまり自然に身につけた文化の中に鍵が隠されていると見るべきでしょう。 (二)、湯の文化と衛生思想 水と湯を全く異なる概念で捉えている民族は日本だけです。世界のどこの国の辞書にも水はあっても湯はない。英語ではホットウォーターであり、仏語ではアクア・カリエステで、水、温めたものといい、中国でお湯を呉れというと「茶水」を持ってきます。韓国でも湯はダッタンムルで温めた水のことです。 日本では至る所に自然の温泉が湧き、湯の中に水と異なる効用と神聖さを発見しました。高温多湿の風土で畑やたんぼの仕事で、泥まみれ、汗まみれの体には、毎日の風呂は欠かせません。 その入り方も欧米人はシャワーを浴びる動的入り方なのに対し、日本人は徳利のように体全体を湯舟につかり静的に入ります。それは清潔のためだけではなく、一日の疲れを癒し、心身をリフレッシュするためです。 一トンの水圧を受け、太れず、血のめぐりがよく、四キロのジョキングした程の汗が出て、湯上りのさわやかさは格別です。日本人の「不老長寿」は「風呂長寿」のおかげなのです。 人は生れると産湯につかり、薬湯や茶の湯を嗜み、出湯を楽しむ。どんな貧しい家でも風呂場は不可欠で「湯殿」と呼んで、そこがわが家の御殿なのです。 中国人も英国人も殆ど湯に入りません。ヘンリー四世は「汝ら英国人よ、少なくとも一年一回は風呂に入るべし」と入湯令を出した程です。漢字の湯は中国ではタンメンで解るようにスープのことで、日本語の「ゆ」の意味ではありません。 更に温暖多湿の風土は神道のけがれの思想や清めに衛生思想を育んできました。万物の生命にみちた国土にはカビや微生物が十万種もはびこっています。 そのうち良いカビは食料の味噌、醤油、酒、納豆、漬物、薬に活用し、悪いカビはけがれとして押さえ、清め給え、祓え給えの神道の礼儀を生んできました。 日本の神道ではバイブルも訓示もなく、ひたすら清潔を旨とします。自然の恵み豊かな国土では、日本人が神に祈り感謝し、清潔に清めた衛生生活をしていれば幸福に暮らせたのです。氏神様はその中心で各集落の厚生大臣の役割を果たしていたのです。このように神道は迷信ではなく、日本の風土に生きる知恵だったのです。 日本では綺麗な人とはビューティフルな人のことではなく、文字通り清潔な人のことです。挨拶に握手や接吻をしないで、ある距離をおいて頭拝するのは、他人との接触でカビや微生物の伝染を防ぐための民族の得た知恵なのです。自分の家から死人が出た時、喪に服すのは、自らを隔離して、伝染病などのけがれの拡散を防ぐための合理的な手段で、決して迷信ではありません。集落の入口に道祖神が祭ってあるのは、他所から入る者のけがれをチェックするための知恵です。 (三)、米のめしこそ長寿万歳のもと 米のめしは日本人にとって完全食だったのです(玄米食がよい)。生れてから死ぬまで、毎日食べてあきたという人はいません。美食家が世界中の食事を食べ歩いて比較して帰ってきて、結局日本のめし、日の丸のおにぎりが一番うまいという結論に達したそうです。 肥満や成人病に悩む米国で、政府が理想的な国民栄養バランスの澱粉、脂肪、蛋白質を計算したら、それは伝統的な日本食であることが解った。それから理想のダイエット日本食ブームがおこったのは当然でした。米国の町で寿司バーや日本食堂がない所はないそうです。寿司は鮨とも書き、名前からして寿を司る、旨い食物で、めし、鮮魚、海苔、酢、醤油で成り立ち、栄養バランスは最高です。 食とは文字通り人によいことという構成になっています。食は人を最良に保つ生理行為で、食べ物とは賜りもので、天地の神の恵みで賜ったものです。 食事は、生命体(人間)と生命体(食物)の合体だから新鮮なものほどよいわけです。煮たり焼いたりした食物は生命を殺し、細胞を壊した死の食餌です。 生のままで、料理しないものが最適です。すべての動物はこれを実行しています。日本食はこれに近いのです。和食は刺し身、いか刺し、生玉子、大根おろし、トロロ、納豆、海藻、生野菜、漬物と生食が多く取り入れています。ごはんは水でゆでただけで料理したものではないからよいのです。和食こそ長寿万歳ということができます。 (四)、ことわざと家族制度 人は郷に入ったら郷に従うのがよいのです。郷土の言い伝え、御先祖様の教えや俚諺を守るのがよいのです。「柿が赤くなると医者が青くなる」。柿にはビタミンABCがあって、先祖が庭に植えておいてくれた柿の実を食べて、鳥も人も厳しい冬を越せるのです。 また「おかゆに梅干し、医者殺し」「梅はその日の難逃れ」。梅の効用は老化防止、血液浄化、活力増進、殺菌効果、疲労回復で日本人の好む最高の風土食です。 この外、健康俚諺では、“コンのつくもの精がつく”、大根、蓮根、蒟蒻、昆布がそれです。「大豆は畑の肉」「老化は足からやってくる」「酒は百薬の長」「一杯は人が酒を飲み、二杯は酒が酒を飲み、三杯は酒が人を飲む」「脂肪(美食)の取り過ぎ死亡に通ず」「人は飢えて死ぬのではなく、食べ過ぎて死ぬのだ」というように多くの知恵を先祖は残してくれています。 長寿日本を支えた背景に祖先崇拝と家族制度を忘れてはなりません。家では老人は長老として最も尊敬され、子や孫に取り囲まれて仕合せな余生を送ることができました。金さん銀さんを生んだのも、多くの百歳老人も、温かい家族制度の賜だったのです。 ところが戦後、欧米の個人主義が核家族を是とし、老人は孤独な養老院やホームに疎外されるようになりました。現代の姥捨山で、戦前になかった老人問題が発生し深刻になってきました。 これは日本去勢化のための現憲法下、タテ社会であるイエの制度を破壊したからです。更に近年夫婦別姓制度を導入して、ヨコの核家族まで分解しようとの策謀があることは注意せねばなりません。 家族の崩壊は老人問題を深刻化するだけでなく、やがて国家の解体につながる重大事です。日本だけが国のことをネーション、ステートと言わず「国家」と訳して、家の集まりが国家であることを文字の上に示しています。 二、武士道と大和魂の日本精神 (一)、新渡戸稲造の武士道 江戸時代から明治維新を経て、戦前昭和の日本人を貫く精神は武士道と大和魂、忠孝の思想でした。ところが戦後、敗戦を契機としてこれら「日本的な価値観」はすべて悪として切り捨てられてしまいました。憂国の士がこれらの価値を前向きに評価しようとすると「右翼」だ「保守反動」だ「タカ派」だとレッテルを貼り圧殺してしまう空気があったことは嘆かわしい風潮でした。 しかし、反戦平和主義で国際的知識人として著名な新渡戸稲造(五千円札の肖像画に採用)は率先して「武士道」や「大和魂」の素晴らしさを早くから世界に宣伝していたのです。 彼は文久二年(一八六二年)盛岡に生まれ、明治九年、札幌農学校に内村鑑三らと共に有名なクラーク博士の下で徹底的なジェントルマン教育を受けました。米独に留学した後、一高の校長から東大の教授として若者の人間教育に心血を注ぎました。彼は日本及び日本人の真の姿を世界に知ってもらうため、あえて「武士道」という名の本を英語でフィラデルフィアで出版しました。(Soul of Japan/1899) 武士階級の道徳的あり方を律してきた武士道こそ、日本国民すべての日本魂であるとしました。道徳大系としての武士道が説く義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己等の徳目は単に武士階級にとどまらず、広く人間形成における普遍的規範であります。これは西欧におけるキリスト教個人倫理に比肩される堂々たるものであると強調しました。これらの美徳は今ほど切実に日本人に求められている時はないのです。 武士道の「武」という字は戈(武器)を止めるという構成から解るように、戦わずして平和を維持する道のことです。戦うための武術の道というより武士階級が守るべき倫理道徳の精神面が強調されている所に特色があります。 この傾向は江戸時代が戦争の全くない平和が三百年近く続いた世界でも珍しい安定した時代だったからです。武士は孔孟の教えである儒学を学び、忠君愛国の精神修養にはげみました。武士は自分の命を捨てても守るべきもの主君、天下国家即ち「公」に捧げる奉公精神を養いました。滅私奉公です。 佐賀藩の武士の道徳をといた、“葉隠”では「武士道とは死ぬことを見付けたり」と割り切っています。武士とは死を覚悟して行動する者、これば葉隠れの心です。この精神は、大東亜戦争戦争で神風特攻隊や人間魚雷に結実し、生命より大切な祖国を守ったのです。 江戸も末期になって欧米殖民帝国主義の脅威が日本近海に迫る国難的危機を感じて、武士道の忠勤をつくす対象が各藩の主君から、日本国家や天皇に変わり、日本の武士道精神は明治維新や日清、日露戦争に見事に花を咲かすことになったのです。武士道は明治の軍人精神に受け継がれました。 一旦緩急あれば義勇公に奉ずる武士道精神は幕末から明治の幾多の国難を乗り越える原動力となり、また乃木将軍の“昨日の敵は、今日の友”の水師営の会見のように、敵将をも称える日本の武士道ならではの美談を生んで、世界の注目を浴びたのです。 戦前の教育を受けた日本人はすべて武士道精神を身につけていました。侵略や不正義には断固立ち上がる毅然たる勇気をもっていました。国家の尊厳と価値を高める愛国の志をもっていました。「志」とは文字通り「士の心」なのです。このように日本の武士道は単なる封建制の遺物でもなく、野蛮な戦闘技術ではなかったのです。深い倫理哲学を背後にもった、人の道だったのです。 (二)、大和魂(日本の心) 古代から私たちの祖先は自分の国のことをヤマトと呼んで誇っていました。第十二代景行天皇紀に「大和の国のまほろば」とあり、まほろばとはすぐれたよい所、よい国の意味の古語です。現在の奈良県のある大和地方は第一代神武天皇の都があった所で、日本国家の発祥の地で、それをそのまま国名にしたものです。 ヤマトに大和の字を当てたのは、国の理想が「和」であったから、これに大いにすぐれているという意味の大をつけて大和と名付けました。「和」は聖徳太子が我が国最初の十七条憲法の第一条に「和をもって貴しとなす」と定めたように、和は日本精神の基本中の基本だからです。和はおだやか、なごやか、のどか、仲良くする意で、調和、平和、温和、和睦など日本の心にピッタリです。和は輪に通じ円満、日の丸の旗にも示されています。 我々は日常、和食、和室、和服、和紙、和歌、和洋の如く、和を日本の代名詞として何の疑問もなく使っています。 一方大陸では古代から日本のことを「倭(ヤマト)」という漢字を当てて倭人、倭国と蔑視しています。倭はみにくい、いやしい、小人といった軽蔑の意味です。ヤマトの国を邪馬台国(よこしまの馬の台の国)、また日の皇子の女皇を卑弥呼、といった字を当てているのは明らかに日本を馬鹿にした呼称で、日本人が使うのは愚かなことです。 和の精神には更に仏の慈悲、慈愛、思いやり、仁愛の心が含まれています。それは人は一人で生きられない、お互い、助け合い支えあって生きているからです。人間のことを人の間、人間(ニンカン)と名付けたのは日本だけです。このような考え方は西欧の個人中心の人権、ヒューマニズムからは出てきません。 夫婦を初めとしてすべて社会は間柄で成り立っています。その間は仁愛で結ばれていなくてはなりません。天皇様の名が仁徳天皇を初め、明治天皇が陸仁(ムツヒト)、大正天皇が嘉仁(ヨシヒト)、昭和天皇が裕仁(ヒロヒト)、今上天皇が明仁(アキヒト)、皇太子様が徳仁(ナルヒト)と皆仁を理想としておられることから、日本の天皇制とは何かが明瞭に解ります。 本居宣長は大和心とは何かと問われて、「敷島の大和心を人問わば、朝日ににおう山桜花」と即座に答えました。 大和魂という言葉は源氏物語にも出てくる古いものです。当初は決して敵に勝つといった荒々しい意味はなかったのです。ところが幕末になって、外国からの侵略の危機が迫ると再び尊王攘夷論が勢力を得て、次第に武断的国粋思想が加わっていったのです。美しい祖国日本を毅然として守り抜くという大和魂に進化していったのは自然の姿です。大和魂は天皇制国家を支える国体観念の源、愛国精神であると教えられてきたのです。戦場に赴いた時、果敢に戦って国のために死ぬことが武士道の極致で、憂国愛国の大和魂こそ、日本民族としての至情の精神に高められていったのです。 幕末の第一の愛国者救国者吉田松陰は、安政の大獄で三十歳で国に殉じた時、辞世の歌を残しました。 身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂 楠木正成の七生報国(七度生まれ変わって国恩に報いる精神)と共に、日本男子の鏡です。 (三)、忠孝は民族最高の徳目 戦前の日本人に日本の国体の精華とは何ですかと問えば、すぐに第一が天皇制、第二が忠孝の精神と答えられました。忠とは愛国心のこと、考とは親孝行のことです。忠と考はどの民族にとっても最高の徳目でした。だからどんな小さな国でも教育の基本に、忠孝をおいて教育の目的としています。 ところが日本のみ戦後道徳教育を廃止し、忠孝は死語となって、教育界からも社会からも危険な言葉として口に出すのをタブーとされてしまいました。この学校教育の基本を忘れた結果、いじめ、校内暴力、万引き、親殺し、と少年の非行化が激増して教育の荒廃が極点に達してきました。また国家観念を欠いた世界一愛国心の乏しい無国籍な国民が巷にあふれてきました。 戦前の教育勅語に「我が臣民よく忠に、よく考に、億兆心を一にして、世々その美をなせるは、これわが国体の精華にして、教育の淵源また実に此に存す」と明確にのべています。 人間にとって最高の道徳、忠孝こそ、日本民族の国体の精華だったのです。教育の基本もここにあったのです。これを忘れては動物以下になります。 戦前、この教育で育てられた大人たちが今の日本の発展を支えていました。戦後これを否定したところに教育荒廃の原因があることが明らかになりました。 日本再建のためには、このあたり前の国体の精華の原点に復帰せねばなりません。教育勅語の復活は急務です。 (四)、日本精神は台湾で生きていた 台湾人金美齢女史は「台湾で生きている日本精神」という小論を発表しました。(新潮45S7八月号) 台湾には今、「リップン・チェンシン」という新語が流行しているそうです。これは日本精神ということで、含まれる意味は「清潔、公正、誠実、勤勉、信頼、責任感、規律順守、滅私奉公」といったものです。 日本精神とは、戦後日本人が台湾から引き上げた後、台湾の国民の間から自然発生的に生まれた言葉がリップン・チェンシン(日本精神)だというのです。 この背景には、一九四五年十月に国民党軍が台湾を占領した歴史があります。2・28事件といわれる大量の犠牲者を出した虐殺事件が起こり国民党軍の台湾支配は想像に絶するもので、台湾人はこの時「祖国の同胞」を信じていた夢を完膚無きまでに打ちのめされたのです。その知的レベルの低さは目を覆うばかりで、「人間としての質が誠に劣悪な人たち」でありました。 この状況の中で、台湾人のやり場のない気持ちが「良き時代」つまり「日本統治時代」へ向けられ、その時に「リップン・チェンシン」という言葉が生まれたのです。 一方日本精神と反対で「中国式」という言葉があり、これは「ルーズ、無責任、不公平、欺瞞的、金が万事」という意味で、彼らに対して軽蔑をこめて「中国式」という言葉を使ったのです。 金美齢女史は日本精神を強調した後で「今これが本当に必要なのは、他でもない、この日本なのです」と結んで、日本が、自国の歴史や民族を自虐的に捉える世界に類例のない考え方に警告を与えています。 戦時中、台湾人は日本の皇民として、アジアの解放のため大東亜戦争を聖戦として戦ったことに誇りをもっています。勇敢に戦って戦死した英霊が二万人ほど靖国神社にまつられています。日本精神の象徴である勤勉な二宮金次郎の像が各地の学校にそのまま残っています。教育勅語や天皇の御真影をそのまま飾っている家がある由です。 (五)、フジモリ大統領と大和魂 次に平成九年に発生したペルーの人質事件はフジモリ大統領の緻密な戦術と毅然たる決断で見事に解決しました。私たち日本人は、はからずも大統領の中に日本精神の大和魂が生きているのを見て感動しました。 その一つが危機、国難に対して禍を転じて福となす心構えと、次は一旦緩急あれば祖国ペルーのため、義勇公に奉じ、敵(悪、不正義)に絶対屈しない義に殉ずるサムライ精神です。 敵を欺くためには、味方を欺く戦国の武将のとった孫子の兵法を彼は知っていました。忠臣蔵の大石蔵之助、敵は本能寺にありの明智光秀の成功も然りです。 次に彼はこの国難を小国ペルーを世界に注目させ売り込むチャンスを見事に活用しました。二千名を越す内外の記者がペルー首都リマに集まる。これはペルーの歴史で稀有な事です。貧しいペルーを世界に売り込むチャンスととらえ、内外の記者を連れて、派手な国際外交、国内外交を展開しました。つまり国難を神風にかえる知恵を知っていたのです。 彼は七年前最初に大統領に立候補する時、ペルー人が持っていない日本人の特性の「勤勉、正直、技術」を掲げて見事に当選し、経済を立て直した。これがカンビオ九〇(改革)であった。彼の魂の中に農耕民族日本人の国民性がペルーの地で尚生きていたのです。 ブラジル初め南米各地の日本移民の成功も皆この大和魂の成果だったのです。フジモリは貧しい移民の子であるが、父の火の国熊本のモッコス精神を受け継いでいたのです。彼の中に日本ですっかり忘れられた日本の心、武士道精神が生きていたのです。「日本人よここにあり」を世界に示してくれたのです。テロには絶対に屈しない、テロ対策の模範を示したのです。平和ボケの日本に多くの教訓を残してくれました。 *学校法人日本航空学園元顧問 公益財団法人日本航空教育協会講師 清水 薫八郎 著(よみがえれ日本) *「人生でいちばん大切な10の知恵 親子で読む教育勅語」 梅沢 重雄 著 より抜粋 |