講演 日本の形と武士の心
徳 川 光 康

秋季 全国代表者・役員会議(二十九年十月二十九日)に於いて皆様こんにちは、今日の話は、「日本の形と武士の心」です。
 今の日本の形、これは日本が大東亜戦争に負けた時、あるべき姿を戦勝国の力によって歪められた結果です。国体は保たれましたが、本来の国体と異なり、国家元首である「お上」は象徴と規定されています。本来あるべき形を取り戻すには、日本青年社を中心とした皆様方の活動しかありません。
 また、今日は今の日本の形を作り上げた最初の切っ掛けであります徳川慶喜による政権の返上について私なりの見解をお話をさせていただこうと思います。
 皆様御存じの様に私は徳川家に生まれ育った人間ではありません。徳川に関係する家に生まれました。明治政権以前は徳川の分家に生まれても徳川を名乗ることは出来ませんでした。徳川関連の家も同じです。徳川の子供達は長男は徳川でしたが、次男からは松平を名乗り分家しました。徳川関連の家は、ほとんど
の家が、その女系の家名を名乗る事が普通でした。松平、久松、保科、諸星、小栗、奥平等です。私は諸星の家の出身です。松平、保科、久松、以外は大名に列する事はほとんど無く、家臣身分の直参旗本でした。ですから私は徳川の一員の目線と家臣の目線の両方の見方が出来る特技を持った数人の一人だと自認し
ています。そんな目線で徳川慶喜による政権返上をお話ししようと思います。

【武士道精神】
 武士の心、これもまた皆さんがよく御存じの武士道精神のことです。武士道と一口に言われますが、武家政権の約七百年の中で、武士道が武家の統一された精神論として論じられたことはありません。幕府が奨励する儒教要素の色濃い山鹿素行による士道の精神が論じられましたが、山鹿素行の士道は忠君よりも
「武士は町民や農民の模範にならなければならない」と論じています。武士道の本質は、私利私欲ではなく命を懸けて正義を貫き、主君の為、同輩の為、領民の為に最大限を尽くすことを旨としています。
 維新以降、新渡戸稲造により武士道は英訳され欧米に紹介されました。英訳された武士道は鍋島家の武士道を執筆した「葉隠」を基本にして成文化した書です。葉隠の概要は、鍋島家祖の鍋島直茂を武士の理想像として神聖化して論じた書ですが、内容は鍋島の武士道の域を超えてはいません。有名な部分は、「武
士(もののふ)は死ぬことと見つけたり」です。物凄い表現です。この書は鍋島家の中では禁書とされ、公に論じられることはありませんでした。この書が英訳され欧米で出版され、その英訳本の和訳が逆輸入され日本で評価されました。侍の責任の取り方は、「腹を切る」が驚きを持って受けとられたからでしょう。
 武士道精神の始まりは、武士が開拓民であった頃に開拓地を守る為に「一所懸命」を旨とし、武力を蓄えて外敵に備える、これが武家の精神の出発点でした。一所懸命とは、自分達が切り開いた領地を一族郎党、そしてその地の領民を守る為に命を捧げる精神です。近年では「一生懸命」と表現されています。

【徳川慶喜の政権返上とは】
 政権返上は一般的に大政奉還と言われています。今から百五十年前の十月十四日に徳川慶喜により、朝廷に政権の返上と将軍職の辞退が奉上されました。翌日、政権返上は勅許されましたが、将軍職の辞退は保留され、朝廷の政治形態が整うまで政権が再委任されました。「政権の再委任」、奇妙な表現ですが、こ
れには理由があります。徳川十一代将軍のときに、老中であった松平定信によって唱えられた「政権委任論」がありました。政権委任論とは、徳川政権の合法性を幕府の立場上都合よく説明した理論です。「徳川政権」は朝廷からの将軍宣下ごとに代々の将軍が政権を委任される理論です。実際は将軍任命状は発行さ
れますが、委任状は存在しません。朝廷からの暗黙の政権委任です。委任された政権ですから、政権の返上も出来る理屈になります。慶喜はこの理論を実行しました。本来なら政権返上により、平和に血を流すこと無く、明治維新は成立するはずでした。ですが、武力倒幕によって一気に権力掌握しようとする岩倉派
による小御所会議により王政復古の大号令が発せられて将軍は廃止され、慶喜には辞官納地が命じられました。
 「小御所会議」とは、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通等により、摂政、関白、征夷大将軍を廃止して新たに「総裁、議定、参与」の三職を定め政権を運営する政体です。慶喜に命じられた「辞官」には何の問題もありません。政権は既に返上済みですし、将軍職はお上からいただいた官職ですから返上は当然で
す。ですが「納地」はまるで違います。徳川の領地を朝廷に返上せと言われても納得は出来ません。そもそも徳川の領地は誰から貰ったものではありません。
徳川が切り取った領地です。数百年前の松平郷の時代、松平郷の山猿の様な頃から徳川一族や家臣たちが命を落とし、血を流して切り取った領地です。この領地は数万の家臣とその家族の生活の糧です。それをいとも簡単に返納せよとは納得など出来る筈もありません。
 慶喜は納地の件をお上と直接お話しする為に上洛を決意します。薩摩による江戸市中での殺戮、盗賊行為に対する抗議の「討薩の表」も携えた上洛です。将軍の上洛ですから十万や二十万の兵を率いた卒兵上洛は当然ですが、慶喜の身分は「前将軍」ですからごく控えめな兵力、一握りの幕臣と各大名家から寄せ集
め、一万五千の兵を率いての上洛でした。お話し合いの為の上洛ですから武装も貧弱です。これを好機と捉えた薩摩、長州は銃砲を整えて待ち構えていました。鳥羽伏見において薩摩の砲撃により開戦します。
 慶喜には予期せぬ開戦です。そしてあろうことか敵方に錦旗が二旗翻りました。この「錦の御旗」は長州の元医者であった参謀、大村益次郎が京の西陣に依頼して作成した金糸銀糸織りの絹地に菊の御紋を付けた急拵えの軍旗でしたが、誰も本物の錦旗を見たことはありません。徳川軍は誰もが錦旗であると信じま
した。最後まで戦えば勝てた戦いでしたが、錦旗が翻っては歯向かえません。総崩れです。徳川軍は大阪城に撤退しました。大阪城での籠城意見も多く有りましたので、慶喜は兵を鼓舞し、明朝の総攻撃を訓示して寝所に入りました。慶喜は兵を欺き、その夜のうちに重臣だけを伴い江戸へ引き上げました。兵を大阪
城に残しての敵前逃亡です。なぜ慶喜は敵前逃亡したのか?それには慶喜なりの「徳川の武士道」がありました。慶喜が篭城して譜代の援軍を待てば勝てる戦いです。慶喜が籠城すれば、日和見の譜代大名の慶喜を嫌う旗本も必ず馳せ参じます。そして旧幕府軍は必ず勝ったでしょう。ですが、国を二分した内乱とな
れば、喜ぶのは日本の植民地化を狙う諸外国勢力です。国の植民地化を防ぐには、この戦に負けるか、若しくは戦わないか、選択肢は二つです。
 慶喜は戦わない方針を選びました。慶喜は身を捨て、徳川を捨て、七百年の武家政権の名誉を捨てて、朝廷による国の統一と国の安泰を選びました。慶喜の敵前逃亡により旧幕府軍は戦う理由を失い大阪城から総退却しました。薩摩、長州連合軍の大勝利です。鳥羽伏見の戦い以降の役は恭順した徳川家抜きの東北
戦争へ進んでいきます。

【徳川家と無縁であった戊辰戦争】
 一連の戦いを戊辰戦争と称しています。戊辰戦争はこの先も続きますが、恭順した徳川慶喜には無関係な戦争です。旧幕府軍は武装解除され全軍が恭順しました。一部の部隊は脱走し、新政府に反発する諸部隊と合流し、東北戦争、函館戦争へと突き進んで行きます。
 東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、会津救済を名目にして、輪王寺宮を新王に戴き、東北独立王国を目指します。東北の同盟軍は降伏し、函館の五稜郭も開城し、戊辰戦争は集結します。薩摩も長州も徳川も東北諸藩も皆が国の未来と安泰の為に戦いました。政府の体制は違っても目指す目的は同じでした。徳川の
弁解のようになってしまいましたが、戦った全ての人々は皆素晴らしい目的を持った人々でした。
 鳥羽伏見の戦いから薩摩、長州の連合軍は、自分達を官軍と表現し始めました。例の錦旗が根拠の自称です。結果、徳川は朝廷に汚名を着せられました。徳川家は朝敵であった事は一度もありませんでしたが、かつては朝敵とされた徳川慶喜でした。
 明治が落ち着いた頃、慶喜は宮中に参内し明治さまと和解し、従一位勲一等、公爵、麝香間祗侯(じゃこうのましこう)を仰せつかり名誉を回復しました。
同時に慶喜は明治さまの勅命で、徳川宗家とは別に独立した徳川慶喜公爵家を創設しました。今は単に徳川慶喜家と称しています。
 徳川家は当時の諸大名の中でもずば抜けた勤皇の家でした。朝廷から征夷大将軍に任じられ、国政の全権を委任されていた家です。朝廷が徳川の権威と名誉の保証なのです。ですから徳川が皇室を蔑ろにする筈がありません。お上ほど怖い存在は他にありません。そのことは皇室も十分にお分かりのことです。

【日本の軍隊】
 新政府は外国の脅威から国を守る国力と建軍に備える必要に迫られました。富国強兵策と徴兵令の実施です。
 そもそも、日本は古来より朝廷による公地公民の国家でした。国家の常備軍は無く、軍は各豪族の私兵と必要に応じて召集される民兵による軍隊です。朝廷による国の統一の為の戦いも、目的を達成すれば軍は解体され、民兵は日常の生活に復帰します。この繰り返しが、政権が武家に変わってからも戦国時代まで
続きます。
 国民が戦いから離れ、普通に暮らしたのは江戸時代の二百年程だけです。言い方を変えれば、江戸時代の侍に限らず、日本の国民は皆侍の子孫です。日本人の精神には、忠誠心も道徳心も二千数百年の蓄積があります。
 新政府は新たな国軍の創設の為、徴兵制を導入しました。
 徴兵は武士に限らず、一般人も徴兵対象でした。彼らは兵士として軍事教練や思想教育を徹底的に受けます。兵達の教練の吸収は驚異的に早かったそうです。当然です。彼らの心には祖先から受け継いだ精神と道徳心が常に備わっています。「教育勅語」や「歩兵操典」等も今更教育されなくとも彼らのDNAに刻み込まれた思想や戦い方です。

【結びに】
 新政府は短期間で世界でも希な、忠誠心の強い、死をも厭わぬ屈強な軍隊と作り上げました。大東亜戦争には勝てませんでしたし、国も本来の形とは違ってしまいましたが、それも一時的な状態でしょう。
 日本青年社の皆様の活動と想いによって本来の姿に立ち返る事もそう遠くはないと期待しています。祖先から受け継いだ精神ですが、実践するには強い意志と困難を伴います。ですが、試してみる、努力してみる事は出来ると思います。私でも努力ぐらいなら出来る自信はあります。ひょっとしたら努力が実を結ぶかも知れません。皆様も努力をしてみてください。有り難うございました。