倫理・道徳・品格の向上 |
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特別寄稿 「倫理・道徳・品格の向上」
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陽明学 王陽明(ようめい)の学問は「陽明学」と呼ばれ、日本では江戸時代初期の思想家・中江藤樹(とうじゅ)が広め、「日本陽明学の祖」と言われています。 陽明学はもともと、十二世紀の南宋時代の思想化・陸象山(しょうざん)が、「宇宙と人間の心は一体である、宇宙はすなわちわが心、わが心はすなわちこれ 宇宙だ」という考え方をもとに打ち立てた、「心すなわちり理」という思想を受け継いだもので、王陽明はその学問を「心の学」すなわち「心学」と命名して いました。 参考までに、「日本陽明学の祖」である中江藤樹は、「人間一生涯の道」を説いた著書『翁問答(おきなもんどう)』の中で、「人間にはそれぞれの分に応 じた位があり、その職分を尽くし、自己の人間としての完成を図り、社会秩序を確立することこそ、人間一生涯の道の実践だ」と力説しています。 そして、「その道は広大であるから、われわれも到達することができる。太陽や月の光は広大だから誰でも利用することができるのと同じだ。広大であるか ら、貴賤、老若男女の別なく、本当の心のある人ならば例外なく守り行うことができる道なのだ。それは、天にあっては天の道となり、地にあっては地に道と なり、人にあっては人の道となるのだ」と言っています。「天の道すなわち人の道だ」と断言しているところに、中江藤樹の陽明学者としての真骨頂がありま す。 さて、「陽明学の祖」である王陽明が若者に対して説いた「心得」ですが、非常にシンプルです。一に「立志」[志を立てること]、二に「勤学」[学問に 勤(いそ)しみ励むこと]、三に「改過」[過ちを改めること]、四に「責善」[善い行いをするよう勤めること]――この四つの徳目が挙げられています。 ここで言う「責善(せきぜん)」という言葉は、「積善の家には余慶あり」(善行を積む家には余るほどの慶びがある)という場合の「善を積む」ではな く、「責任」の「責」に「善」と書いて、「善を責(せ)む」と読む方の「責善」です。ちなみに『孟子』に「責善は名友の道なり」という言葉がありま す。「善い行いをするよう勤めることは、明友としての道である」という意味です。 王陽明はまずその四つの徳目を挙げた後で、一つずつについてその意味を解説しています。どういうことを説いているか、それぞれ要約して紹介します。 立志 まず「志しを立てること」については、こう言っています。 《志を立てなければ、何ごとも成し遂げることはできない。どのような技術も、志があってはじめて身につくものである。学ぼうとする者が、日々、だらだら と過ごして時間を無駄にし、少しも成果を挙げることができないのは、志が立っていないからだ。志が立っていないのは、舵のない船や轡(くつわ)のない馬 のようなもので、波間に漂ったり、勝手に走り出したりして、どこへ行き着くかわかったものではない。 古人は語っている。「善を行っても、親兄弟に叱られたり、怨まれたりするようなら、 そんな善はしなくてもよい。しかし、善を行えば、親兄弟は喜んでくれるし、周りの人からほめてもらえるのである。どうして善を行い立派な人物になろうと しないのか。逆に悪を行っても親兄弟が喜び、周りに人がほめてくれるなら、それは行ってもよい。しかし、悪を行えば、親兄弟に叱られ、恐まれ、周りの人 から嫌われる。どうしてわざわざ悪を行い、屑のような人間になろうとするのか、」と。 諸君もこの古人の言葉をよく噛みしめてほしい。志を立てることがいかに大事であるか、よく理解できるはずである。》 勤学 次に、「学問に勤しみ励むこと」については、こう説いています。 《立派な人間になると志を立てた以上、自ら学ぶことを怠ってはならない。身を入れて学ぼうとしないのは、志がしっかり立っていないからだ。私に学ぼうと する諸君は、頭の良し悪しは別にして、怠らず、謙虚であることが第一と心得よ。 諸君の同僚の中に、中身が空っぽなのにいっぱいつまっていると思い込み、自分の無能を隠して人の長所をねたんだり、また、自分の能力を鼻にかけて我を 張ったり、大きなことを言って人を欺いたりする人間がいたとしたら、そんな人間は生まれつきの素質がいかに優れていたとしても、同僚から嫌われ、憎まれ るに違いない。 逆に、謙虚で口数が少なく、自分は無能であると認め、強い意志を持って一生懸命学んでいる人、人の善行は評価し自分の欠点を反省し、人の長所に学び自 分の短所を隠さない人、何ごとにも誠実で不満を抱かず、人柄に裏表がない人、そんな人物がいれば、たとえ資質は最低であっても、同輩はこぞって敬意をは らうだろう。自ら無能だと認めて人の上に立とうとせず、人からもまた無能な人間だと見なされたとしても、このような人物を敬愛しない者はいないのであ る。何を学ぶべきか自ずから明らかだろう》 改過 三番目の「過ちを改めること」については、こう諭しています。 《過ちを犯すのは、どんな優れた人物でも免れがたいことだ。しかし、優れた人物が優れた人物であり得るのは、過ちを犯してもすぐに改めることにある。だ から大切なことは、過ちを犯さないことではなく、犯してもすぐに改めることである。 自分自身のことをよく考えてみるがいい。平素、廉恥は誠実さに欠ける行動をしていなかったか。あるいはまた、家庭の円満を乱したり、平気で嘘をついた り、冷たく人を突き放したりしなかったか。仮にあったとすれば、それは知らぬ間に道を踏み誤ったものであり、それを普段から教え諭してくれる師や友がい なかったかである。 ためしに自分をよく見つめてみるがいい。万に一つでも、そういうことをしていたなら、厳しく自分を反省すべきだ。過ちに過ちを重ねることなく、気づい たらすぐに改め、善に立ち返らなくてはならない。「今さら改めても、誰も信じてくれない」と言って、過ちを償うどころか、いつまでもためらって改めよう とせず、泥沼の中に甘んじているような人間に望みがあるとは思えない》 責善 そして最期の「善い行いをするよう勤めること」ことについては、こう言っています。 《善を勤めるのは、友人としての務めである。ただし、あくまでも忠告によって善導しなければならない。その際、誠意をもって遠回しに指摘することが肝要 であり、相手がこちらの意図を感じ取り、素直に過ちを改めてくれたら合格である。ことさら過ちを暴露して非難し、追い詰めたりすれば、相手は恥じ入った としても、怒りや怨みの気持ちを抱くかも知れず、ますます反発を強めるに違いない。これではかえって悪の道に追いやるようなものである。 他人の欠点や隠し事をことさら暴き立てて正義派ぶるのは、善を勤めるゆえんではない。そんなことを人にしてはならない。逆に、自分が人からそうされた らどうすべきか。言うまでもなく、自分の過ちを指摘してくれるのは、自分にとってみな先生であり、喜んで受け入れ、そのことに感謝しなければならない。 私自身、まだ道を体得していないし、学問も粗雑であるが、誤って諸君の師となった。それゆえ、いつも反省しているのだ。 師に対しては、礼を守りながら言うべきことがあれば言わなければならない。「師にいさ諌めるべきことなどない」というのは間違っている。師を諌めると きには、直言しながら礼を踏みはずさない、遠回しでも言うべきことは言う、この二つを心がければよい。私が正しかったら、その正しさを明らかにできる し、私が過ちを犯していたら、その過ちを取り除くことができる。 学問というのは、教える側、学ぶ側双方にとって益があるべきで、諸君が善を勤めるときには、まず真っ先にこの私に対して勤めてほしい。》 当たり前の徳目と言えば、当たり前の徳目かも知れませんが、胸に手を当てながら、よくよく味わってみると、二十一世紀の日本人にも当てはまる部分があ ると納得させられるような心得であります。 与野党の国会議員は、五百年前に王陽明が若者に対して与えた、人間としての「心得」を改めて読み返し、「立志」「勤学」「改過」「責善」の四つの徳目 を体現しながら、国家・国民のために全力投球していただきたいものであります。 合掌 |