戦後失われた「日本精神」復活の原点

倫理・道徳・品格の向上2



倫理道徳の復興に当っての提言

 毎朝毎日毎晩のテレビ・新聞等のマスコミの報道は、痛ましい殺人事件や法律違反の重大な不正行為の話題ばかりです。昭和二十年の敗戦までは、日本は犯罪が少なくて安全な国で、日本人は礼儀正しい国民であると世界中の人達から評価されていました。

 その日本が今では、小学生の半数以上が防犯ベル持参で登校するという犯罪大国に成り下がってしまいました。それでも子供達が被害者となる事件が続発して、行政側は学校警備に躍起になっています。これでは文部科学省ではなく、文部警察省ではありませんか。

 しかし、残念ながら警備を厳しくしても効果は見込めません。潜在的な加害者は、日本の社会に無数に存在するのですから。マッカーサー(GHQ)に占領されて以来の六十年間の倫理道徳不在の学校教育・社会教育・国民教育のツケが回って来たのです。犯罪の根源を絶つ以外には方法はありません。

 では早急な倫理道徳復活の方策は如何にすべきでしょうか。それは明治二十三年の教育勅語の発布に学ぶことが先決です。現在の敗戦後の公衆道徳の退廃と同様に、明治維新の際も大変な混乱がありました。何でもかんでも欧米の舶来の文明文化崇拝で、日本古来の倫理道徳・武道精神は、封建的で無価値なものだという極端な偏見が横行したのです。その結果、学校も社会も国民道徳の規範が無くなって大混乱に陥ったのです。

 この非常事態を改善するために、全国知事会・文部大臣・総理大臣・明治天皇の側近の大学者が知恵を結集して完成させたのが『教育勅語』でした。教育勅語の発布で乱れに乱れた日本の教育界が正常化し、大発展したばかりでなく、この小冊子が紹介するように、世界各国の学者・為政者から絶賛され、欧米の文明国の国民教育の模範となりました。これは現在まで続いております。知らないのは日本人だけです。

 今こそ日本の徳育教育を立て直し、本来の日本人の誇りある精神を取戻すために、有志ある皆様と一致協力して世紀の啓蒙運動に邁進しようではありませんか。



【1】ケネディー大統領と上杉鷹山の話

 平成十五年七月九日のこと、NHK綜合テレビが、五十分間放送の「生活ほっとモーニング」という番組で、【米国のケネディー大統領がもっとも尊敬した人物は上杉鷹山である】という内容の特集を放映しました。

 鷹山の部分は、「質素こそ豊かな暮らしに生きる上杉鷹山の知恵」が、平成の今日でも米沢藩(山形県)の人々に引き継がれている現状を詳しく紹介するものでした。 しかし、なぜ、ケネディー大統領が鷹山を尊敬するに至ったのか、の肝腎な場面が抜けていたので、NHKTVに代わって補足します。

 ケネディー大統領が鷹山のことを知ったのは、明治四十一年に英文で書かれた内村鑑三著「Representative Men of Japan」(代表的日本人)を読んだからです。 同書では、西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮上人の五人を「代表的日本人」として取り上げています。本論で次に紹介する鷹山の話は、内村鑑三の著書の「鷹山」の文章は長すぎるので、戦前の日本の小学校の教科書に載っていた「鷹山」を引用します。


倹 約  上 杉 鷹 山


 上杉鷹山は、十才の時に、秋月家から上杉家へ養子に来ました。

 十四才の時から、細井平洲を先生として学問にはげみました。十七才の時、米沢藩主となり、よい政治をしてひょうばんの高かった人であります。

 鷹山が藩主になった頃は、上杉家には借財が多く、その上、領内には凶作が続いて、領民も大そう難儀をしていました。鷹山は、このままにしておいては家の亡びるのを待つより外はない、と考えて、倹約によって家を立て直し、領民の難儀をすくおうとかたく決心をしました。

 鷹山は、まず江戸にいる藩士を集めて、「このまま当家の亡びるのを待っていて、人びとに難儀をかけるのは、まことに残念である。これ程おとろえた家は立て直す見込みがないとだれも申すが、しかし、このまま亡びるのを待つよりも、心をあわせて倹約をしたら、あるいは立ち行くようになるかも知れない。将来のために、難儀は忍ばなければならない。志を一にして、みんな一生けんめいに倹約を実行しよう。」と言いきかせました。

 「殿様は小藩におそだちになったから、大藩の振合をご存じない。」などと悪口を言う者もあり、また、「皆の喜ばないことは、おやめになった方がよろしうございましょう。」といさめる者もありました。

 しかし、鷹山は少しも志を動かさず、藩士たちに倹約の大切なことをよく説ききかせました。なお、平洲に教えを受けますと、平洲は、「勇気をはげまして志を決行なさいませ。」と言いましたので、鷹山はますます志をかたくして、領内に倹約の命令を出しました。そうして、まず自分のくらしむきをずっとつづめて、大名でありながら、食事は一汁一菜、着物は木綿物ときめて、実行の手本を示しました。

 鷹山は、ある日平洲に向かって、「先生、私は人びとと難儀を共にしようと思って倹約をしています。しかし、衣服も、上に木綿の物を着て、下に絹・紬をかさねていては、ほんとうの倹約になりませんから、下着も皆木綿の物を用いております。」と申しました。

 かように鷹山は、誠実に倹約を守っていましたが、りっぱな大名が、まさか、上衣はもちろん、下着までも木綿を用いようとは、側役の人たちの外、だれも信じませんでした。

 ある日、鷹山の側役の父が、在方へ行って、知合の人の家にとまったことがありました。その人がふろにはいろうとして着物をぬいだ時、粗末な木綿のしゅばんだけは、ていねいに屏風にかけておきました。主人はふしぎに思って、「どうして、しゅばんだけそんなに大事になさいますか。」と尋ねますと、客は、「このじゅばんは、殿様がお召しになっていたものをいただいたのですから。」と答えました。主人は、それを聞いて、大そう藩主の倹約に感じ入り、そのじゅばんを家内の人たちにも見せて、倹約をするようにいましめました。それから、藩士はもちろん、領内の人びとが、この話を伝え聞いて、鷹山の倹約の普通でないことを知り、互いにつつしみ、よく倹約を守るようになったので、しまいには、上杉家も領内一般もゆたかになりました。

 鷹山は、領民の難儀をすくうため、倹約をすすめた上に、なお産業を興して領内を富まそうとはかりました。荒地を開いて農業をいとなもうとする者には、農具の費用や種籾などを与え、三年の租税を免じました。鷹山は、自ら荒地を開く所を見てまわり、あるいは村々に入って、耕作の有様を見て人びとの苦労をなぐさめました。時には、老婆の稲刈にいそがしいのを見て、その運搬を手伝ってやったこともありました。また命令を出して、村々に馬を飼わせたり、馬の市場を開かせたりして農業を盛んにする助けとしました。

 鷹山は、また養蚕をすすめました、領内には、まずしくて桑を植えることの出来ない者も多くいましたが、藩には貸し与える金がないので、鷹山は役人を呼んで、

 「物事は、急に成しとげようと思ってはならない。小を積んで大を成し、ながく続くようにすることが大切である。自分の衣食の費用は出来るだけきりつめてあるが、なおしんぼうして、毎年五・六十両ずつ出そう。それを養蚕奨励の費用にあてて、十年二十年とたったならば、どれ程か結果があらわれよう。自分が倹約して養蚕をすすめると聞いたなら、財産のある者は、進んで土地を開き、桑を植えて蚕を飼おうとする考えを起こすであろう。」と言いました。

 役人は、大いに感じ入って、養蚕役場を設け、鷹山の衣食の費用の中から年々五十両ずつ出して、その金で桑の苗木を買い上げて分けてやり、または桑畑を開く費用として貸し付けをやって、その業をはげましました。

 なお鷹山は、奥向きで蚕を飼わせ、その糸で絹や紬を織らせました。また領内の女子に職業を授けるために、越後から機織の上手な者をやとい入れて、その方法を教えさせました。これが名高い米沢織の始めでありました。

 鷹山はかように心を産業に用いましたから、傾内は次第に富み、養蚕と機織とは盛んにその地方に行なわれ、米沢織は、全国に名高い産物の一つとなりました。



■「籍田(せきでん)の礼」の実施
 大洪水や干ばつにより田畑が荒れ果て、農民の耕作への意欲の喪失を心配した鷹山公は「籍田の礼」を行い、農業の大切さを領民に知らせ、農業を盛んにしたいと考えました。藩主自らが鍬を取って耕すことは前例のないことで、農民はいたく感激し、田の開墾に努力するようになり、また武士たちも農業の大切さを心から悟り、荒れた田の開墾に進んで従事しました。

■ 産業の開発
 産業開発として、養蚕・製糸・織物・製塩・製陶などに取り組み、田畑を開墾させ、漆・こうぞ・桑などを栽培させました。漆の実から漆蝋を生産し、こうぞから和紙を作り、桑の葉で蚕を飼って、生糸をつむぎ絹織物の生産や「養蚕手引」の作成、他藩の養蚕家による指導などにより、領民の関心を高め、絹織物の生産を向上させました。技術はその後も引き継がれ、今でも高く評価されています。

■興譲館(こうじょうかん)の創設
 鷹山公は、米沢藩のこれからの計画には、優秀な人材育成が必要であると考え、そのための学問の場としての「興譲館」を創設しました。「興譲」とは、譲を興すことで謙遜の心をもって相手を尊重する道を修業させることです。この学問所では、古来の聖人君子の道徳を学び、高ぶらない謙譲の美徳を身につけさせ、どんな地位についても恥じない人を作ることを目的とした教育が営まれました。

■出生養育手当の支給、敬老会の開催
 鷹山公は子どもや老人を大切にする政治に着手し、貧しい家庭に対して支給する出生手当金や、15歳以下の子どもを5人以上もっている家庭に支給する養育手当金を制度化しました。また、毎年1月には90歳以上の老人を城に招いて敬老会を開きました。かつて老人を邪魔者扱いし、あるいは無関心に過ごしてきた人も、以後は長寿の老人を出すことを家の誇りとするようになりました。



【2】レーガン大統領と日本の修身

 レーガン大統領は就任すると直ちに道徳教育の復興に乗り出しました。当時のアメリカの中学・高校の教育環境は最悪の状況で、暴力や麻薬の蔓延で荒廃の極に達していました。その原因は皮肉なことに、最高裁判所が生徒規則や学校規則で生徒の自由を束縛してはいけないと決めたからです。自由奔放で、やりたい放題で、規律と道徳教育不在では、まともな生徒は育ちません。

 その道徳教育改革のメンバーの一人が文部長官(日本の文部大臣に該当)を務めたウイリァム・ベネット氏です。彼は退任直後、レーガン政権の教育改革のノウハウを「The Book of Virtues」(道徳読本)という名の本にして出版しました(一九九三年・平成五年)。この八三〇ページもある大著が「第二の聖書」と言われるほど毎年ベストセラーになり、遂に三千万部を突破しました。

 一方、日本では昭和四十五年に小池松次編薯「これが修身だ」が出版されました。

 内容は、明治三十七年から昭和二十年までの国定小学修身教科書と国語教科書の中から、現在でも立派に通用する話を九十二篇選び出して二十二の徳目に配分したものです。この本は、日本最大の発行部数を持つ新聞に「封建的で時代遅れの悪書」と大々的に報道されたので売れ行きは散々でした。ところが、東京のアメリカ大使館から「ワシントンの国立図書館に送ります」と、わざわざ注釈を付けた註文書が舞い込みました。

 平成八年の春のこと、突然、ニューヨークの「Time・タイム」誌の本社から二人の記者が、あすか会教育研究所に「これが修身だ」の編著者の小池を訪ねて来ました。一週間くらい経った頃、今度はドイツの大学教授が、「シュピーゲル誌」の代理だ、と言って訪ねて来ました。双方とも日本語が半分も通じないので訪問の意図がはっきりしません。「あなたアメリカで、ドイツで一番有名」を繰り返すだけで、「なぜ、有名か」の中身が分かりません。憶測すると「これが修身だ」の本が両国で有名になっているらしいのです。

 後日、全く偶然にアメリカの「道徳読本」の存在を知り、原本を取り寄せて読んで、本当に驚きました。「章立て」が「これが修身だ」と瓜二つです。十章の中、九章までは「修身」とそっくりで、最後の十章の「Faith・信仰」だけが違っています。日本の修身には「信仰」は入ってないので、これだけが 「アメリカ」製です。

 裏表紙の「推薦の言葉」を読んで又驚きました。トップが「Time・タイム」誌で、四番目がイギリスの、「鉄の女」と呼ばれて世界的に有名なマーガレット・サッチャー首相でした。これで、アメリカとドイツから「あすか会教育研究所」に取材に来た理由がやっと分かりました。 日本の識者は不案内と思うので翻訳して載せます。かくも国際的に評価の高い「日本の修身」を、本家本元の日本人だけが粗末に扱うなんて「もったいない」限りです。ご先祖様に申し訳が立ちません。


The Book of Virtues「道徳読本」

1、Self - Discipline 「自己規律」
  恭倹己レヲ持シ(勅語)
  克己・節制(修身)
2、Compassion 「同情」
  博愛衆ニ及ボシ(勅語)
  博愛・慈善(修身)
3、Responsibility 「責任」
  責任・職分(修身)
4、Friendship 「友情」
  朋友相信ジ(勅語)
  友情・朋友(修身)
5、Work 「勤勉」
  学ヲ修メ業ヲ習イ(勅語)
  勤労・努力(修身)
6、courage 「勇気」
  公益ヲ広メ政務ヲ開キ(勅語)
  進取ノ気象・勇気(修身)
7、Perseverance 「忍耐」
  勉学・努力(修身)
8、Honesty 「正直」
  知能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ(勅語)
  正直・至誠(修身)
9、Loyalty「愛情」
  父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ(勅語)
  家族・家庭(修身)
10、Faith 「信仰」

註、(勅語)は『教育勅語』
  (修身)は『これが修身だ』より



全米No、1 ベストセラー「道徳読本」への称賛

「産院を退院しようとしている新しく親となった者たちに、家庭読本として配付されるべき本である。」

タイム誌

「この世の痛ましい空白点を埋めてくれる注意深く選ばれた物語集である。」

ロバート・コールズ ハーバード大学医学部精神科教授
「子供たちの危機」の著者でピューリッツア賞を受賞。

「大人とともに子供も楽しませてくれる素晴らしい物語集である。健全で得心の行く人生哲学である。」

ダラス・モーニング・ニュース

「『道徳読本』は心に触れる本である。そして心をつくる手助けをしてくれる。親たちはこれを買って子供に読んでやるだろう。心からの喜びを感じながら読 んでやっているのを発見するだろう。」

元英国首相 マーガレット・サッチャー

「おそらくこれこそ国家が必要としているものだろう。」

ニューズウィーク誌

「これは全ての家庭のものだ」

ラッシュ・リンボー
ラジオ・テレビのパーソナリティーとして全米で知られている。
ラジオで毎週二〇〇〇万人の聴衆に語りかけている。

「ウィリァム・ベネットがいうように、教育の中心課題が道徳を教えることであるとするならば、彼はまさしく理想的なテキストを書いたものである。」 

ピープル誌

「あらゆる年代層の人々により良き人になりたいという気持ちを起こさせる本である。」

ロジャー・ストーバックNFLを代表する偉大なクオーターバックとして有名。

「尊敬せざるをえない。こうした企画がいかになされるべきかという見本である。」

ザ・ニュー・リパブリック誌

「非常に読みやすく、また重要な本である。」

ラリー・キング/CNNの最も高い視聴率を誇るトークショーのホストとして有名。

「両親と教師とがこの本を利用することができるし、また利用すべきである。」

ワシントン・ポスト・ブック・ワールド(紙)



『これが修身だ』発刊によせて

 国定修身教科書は、最初、明治三十六年に文部省から発行されました。それから昭和二十年までに、大きな改訂が四回ありました。教育史では、これを一〜五期と区別しています。尋常小学修身教科書に例をとれば、一期は明治三十七年、二期は明治四十三年、三期は大正七年、四期は昭和九年(ここまでは尋常高等小学校とよぶ)、五期は昭和十六年(これからの二十年までは国民学校とよぶ)から使用され、次の改訂までを同期とみなされています。

 一〜五期の間に発行された修身教科書の種類は、尋常科・高等科・国民学校と合わせて四十四種類にのぼります。この『これが修身だ』は、これら四十四種類の教科書を整理して、七十四篇をえらび出し、さらに、修身に加えた方が適当と思われる内容のものを、国語教科書から十三篇、行儀作法の話を五篇書き加えて、計九十二篇を、二十二の徳目に配分して編集し直したものです。

 長い間、日本人の精神形成の中心的役割を果たしてきた修身は、昭和二十年の敗戦で廃止されてしまいました。こんにちのみだれた世相を見るにつけ、修身教育の必要性を痛感しておられる識者も多いことと思います。

 私は、この本が、日本人本来のしつけと道徳を見直す契機となることを期待して世に送ります。この本が、一人でも多くの人に、一冊でもよけいに愛読されて、日本国民、とくに青少年の道義心の確立、向上の一助となることを願って止みません。

昭和四十五年四月十五日 編著者 小池松次


   数 え う た

一つとや
 人びと忠義を第一に
 あおげや高き 君の恩 国の恩

二つとや
 二人のおや御を大切に
 思えや ふかき父の愛 母の愛

三つとや
 みきは一つの枝と枝
 仲よく暮らせよ 兄弟・姉妹

四つとや
 善きことたがいにすすめあい
 悪しきをいさめよ 友と友 人と人

五つとや
 いつわりいわぬが子どもらの
 学びのはじめぞ つつしめよ
 いましめよ

六つとや
 昔を考え 今を知り
 学びの光を身にそえよ 身につけよ

七つとや
 難儀をする人見るときは
 力のかぎりいたわれよ あわれめよ

八つとや
 病は口より入るという
 飲食・食物気をつけよ 心せよ

九つとや
 心はかならず高くもて
 たとい身分はひくくとも 軽くとも

十とや
 遠き祖先の教えをも
 守りてつくせ 家のため 国のため

『これが修身だ』より




【3】ドイツのアデナウアー首相と教育勅語の話

 
太平洋戦争終戦後の文献を調べているうちに、教育勅語についての似たような内容の記事に何度も出会いました。それは、日本とドイツは敗戦国同士だったのに、ドイツの方が早く復興したから、日本の訪問団がアデナウアー首相に面会して、「ドイツ復興の原動力は何か」を尋ねた時のことです。 その際にアデナウアー首相は、執務室の壁に掲げてある額縁を指差して、「これが復興の原動力です」と答えました。日本の訪問団員がその「額縁」を見上げても、ドイツ語の文字だから何のことかさっぱり分かりません。アデナウアー首相は更に「これは日本の教育勅語です。我々はこの教育勅語の精神のおかげで復興できたのです」と言葉を続けた、という逸話です。

 昭和四十六年に、このアデナウアー首相執務室のドイツ語教育勅語について真偽を確かめるための追跡調査を行いました。約二十年間の時差があったので日本側の訪問団のメンバーと期日は特定できなかったものの、ドイツ側の「ドイツ語教育勅語」の方は充分な資料を探すことができました。

その一、日本の文部省が教育勅語をドイツ語に翻訳したのは明治四十年の後半。

その二、翻訳した訳は、在ロンドンのドイツ大使館から日本大使館に強く要請があったため。

その三、完成したドイツ語教育勅語をドイツ側に渡したのは明治四十一年九月二十五日。

その四、場所は日・独両大使館のあるロンドン。

その 五、この式典に参加したのはドイツの文部大臣と首相代理、それに著名な学者。そのメンバーの氏名と役職は次の通り。

その六、アデナウアー首相執務室に掲げてあったものの『原本』(明治四十年作成)を日本の文部省で確認。

 以上のような資料から見ても、或いは明治三十八年の日露戦争に勝利した日本に対する欧米人の称賛の世相から勘案しても、アデナウアー首相の発言云々の話題は素直に受け入れて然るべきものと思われます。





日本の修身教科書


1、日本の国旗

 きょうは明治節です。どの家にも、日の丸の旗が朝風にいきおいよくひるがえっています。

 この村には、もと、祝日に日の丸の旗の立たない家もあったそうです。それが、今から十年ほど前に、村中そうだんして、どの家でも日の丸の旗を作りました。そうして、いつもは、しぶ引のふくろに入れ、ふくろの上に旗を立てる日を書いて、神棚の下にかけて置くことにしました。それからはこの村には、祝日や祭日に旗の立たない家は、一けんもなくなったということです。

 どの国にも、その国のしるしの旗があります。これを国旗といいます。日の丸の旗は日本の国旗です。我が国の祝日や祭日には、学校でも、家々でも、国旗を立てます。これは国民が、祝日には、おいわいの心持をあらわし、祭日には、つつしみの心持をあらわすためです。

 日本の船が外国のみなとにとまる時には、日の丸の旗を立てます。また、国々のうんどうせんしゅが集って、きょうぎをする時にも、日本のせんしゅが勝つと「君が代」の奏楽とともに、日の丸の旗が高くあげられます。

 こういう時に、勇しい日の丸の旗を見上げると、日本人の胸は、国を愛する心で一ぱいになり、思わず涙が出ます。

 日の丸の旗は、日本のしるしですから、私たち日本人は、だれでもこれを大切にします。それと同じように、外国の人も、自分の国の国旗を大切にします。 私たちは、外国の国旗にも、れいぎをうしなわないように心がけましょう。

(昭和9年〜昭和15年 尋常小学修身教科書 三年)


二、公徳心 乃木大将

 公園の樹木を折りとったり、塀や壁に落書をしたり、人ごみの中で人を押しのけて進んだりするのは、公徳心にかけた行ないです。公園の樹木を折る人も、隣りの庭の花はとらないでしょう。また、どんな人ごみの中でも、知合いの人を押しのけるようなことはしないでしょう。知合っている間では決してしないことでも、見ず知らずの人の間となると平気でするのは、つまり自分が公衆と一体の生活をしているという考えがなく、かようなことをしては恥ずかしいと感じないからです。

 私たちは、自らつつしんで、知っている人に対しても、また、知らない人に対しても、決して迷惑をかけるようなことをせず、常に公衆の一人として、何事をするにも公衆のためを考えて、世の中の幸福を進めるように心掛けなければなりません。

 乃木大将が学習院長であった時、大将は常に生徒に、少しでも人の迷惑になるようなことをしてはならないと言いきかせました。そうして、白分も決して人の迷惑になるようなことはしませんでした。

 ある日、大将は電車に乗って上野へ行きました。ちょうど雨降りで、大将の着ていた外套は雨にぬれていましたので、車内で人から席をゆずられても、ただていねいにお礼を言うだけで、腰を掛けようとはしませんでした。大将についていた人が、外套を持ちましょうかと言いましたが、それもことわって、ずっと上野まで立ったままで行きました。

 人びとが互いに公徳を重んずれば、世の中の秩序はととのい、みんな楽しく生活することが出来ます。世の中が開けて、汽車・汽船・電車・自動車・飛行機等の乗物の便がよくなり、図書館・博物館等が各地に設けられ、公園も諸所に作られて来ますと、これらの公共の物を利用する場合が多くなりますから、私たちは一そう注意して、公徳を守らなければなりません。

(昭和9年〜昭和15年 尋常小学修身教科書 五年)


3、一切経の出版 鉄眼の一切経

 一切経は仏教に関する書籍を集めた叢書であって、仏教にこころざす人にとっては、この上なく貴重なものである。しかも、それは数千巻という大部なもので、これを出版するのは、容易なことでなかった。したがって、以前は支那から来たものが、ごくわずかあるだけで、いくらほしくても、なかなか手に入れることができなかった。 今から二百数十年前、山城宇治の黄蘗山万福寺に鉄眼という僧があった。ある時鉄眼は自分の一生涯の仕事として、この一切経の出版を思いたった。そうしてどんな困難をしのんでも、必ずこのくわだてをなしとげようとかたく心に誓った。

 鉄眼は、広く各地をめぐり歩いて資金をつのり、数年かかって、ようやくその資金をととのえることができた。鉄眼がいよいよ出版に着手しようとした時である。大阪地方に出水が起こった。たくさんの死傷者ができ、家産を流失して路頭に迷う者は、かぞえきれないほどであった。まのあたりに、このあわれなありさまを見て、鉄眼はじっとしていることができなかった。

 「自分が、一切経の出版を思いたったのは、仏教をさかんにしようとしてのことである。仏教をさかんにしようとすることは、つまり人をすくおうとするためである。喜捨を受けたこの金を、一切経のためについやすのも、うえた人びとの救助にもちいるのも、帰するところは同じである。一切経を世にひろめるのはもちろん大切である。けれども、人の死をすくうのは、もっと大切である。」

 こう思った鉄眼は、喜捨してくれた人びとの同意を得た上で、出版の資金全部を救助の費用にあてたのであった。苦心に苦心を重ねて集めた出版費は、すっかりなくなった。しかし、鉄眼は少しも気にかけず、また募集に着手した。それからさらに数年、努力はむくいられて、いよいよ志をはたすことのできる日が近づいた。

 ところで、今度は近畿地方一帯に大飢饉があって、人びとの苦しみは、この前の洪水どころではなかった。幕府は、たくさんのすくい小屋をつくって、救助にあたったが、人びとの難儀は、日ましにつのって行くばかりであった。鉄眼は、ふたたび救済を決意した。こうして、鉄眼は二度資金を集めて、二度それを散じてしまった。 しかも、鉄眼は、第三回の募集に着手した。かれの深い慈悲心と、あくまで一念をひるがえさない熱意とが、世間の人びとの心を動かさないではおかなかった。

 われもわれもと多くの人びとが、進んで寄付に応じた。資金は、意外に早く集まり、製版・印刷のわざは、着々として進んだ。鉄眼が、この大事業を思いたって以来十七年、天和元年に至って、一切経六千九百五十六巻の大出版は、ついに完成された。これが世に鉄眼版と称されるもので、一切経が広く日本に行なわれるようになったのは、実にこれ以来のことである。

 この版木は、今も万福寺に保存され、三棟の倉庫にぎっしりつまっている。

 「鉄眼は、一生に三度、一切経を出版した。」

 これは、のちに福田行誠という人が、鉄眼の事業を感歎していったことばである。

(昭和16年〜昭和20年 国民学校修身教科書 初等科四年)



日本青年社 基本理念  倫理・道徳・品格の向上

 我が国に於ける昨今の倫理・道徳退廃の現状は目に余り、とどまる所を知らぬ様相を呈しております。

 その多くの要因はいわゆる戦後の占領政策に起因し、結果として精神的背骨を失い、取り戻す努力を怠り、その教育を放棄してきた日本人そのものにあると断定せざるをえません。

 昨今の我が国は民族の本然たる道義や道徳、修身といった教育が「言葉」の上のものとなり、それを「教育・教練」として受け、身につけるべき機会を完全に損なっております。

 日本人は元来、『この世に生を受け、人の為にいかにあるべきか』という利他の精神を育んできた民族であり、そうした生き方は人としての『在り方』を希求し『らしさ』として体現してきました。

 『在り方』や『らしさ』を求める生き方の対象は大勢の中の自己にあり、自己の研鑚の不足を『恥』としてきた民族だからこそ、より高度な人格形成をなしてきたのであります。

 日本民族は世々、先祖の遺徳とその叡智を尊重し、万物に生命観を抱き、あまねく森羅万象を恵みとして、更にそれらを八百万の神々として崇めるという素晴らしい日本独得の伝統文化を形成し、継承して参りました。

 『人類文明の秘宝』とまで評されたはずの日本民族とその精神は敗戦と占領政策、特に不法不当な極東国際軍事裁判によって歪められ、史実に反する教育と戦後の間違った自虐史観によって取り返しのつかない状態に陥っております。

 近代科学文明が進み、世界の情報がリアルタイムで入手でき、人間の叡智が国際的に生かされる時代でありながら、いまだに紛争の解決を戦争に求める愚を犯しつづけ、大国のエゴのみが正当化される社会がそこにあり、経済にあっては昨今のマネーゲームに見えるように、技術や生産を伴わない拝金・利己主義に翻弄される…そんな社会に一石を投じなくてはなりません。

 歴史の中でも幾度となく直面した、このような世情を打開してきたのは常に『維新』、すなわち原点に立ち返り元の姿を復元する事にあります。

 科学的進歩と経済的発展の裏側に置き去りにされた『真の叡智』と『誠の正義』は日本民族が育んできた慈愛の心と、堅く貫いてきた義の心で再興しなくてはなりません。

 日本民族の資質の向上と意識の昂揚は時代に求められた必然性であり、進むべき道を知覚感得し、涵養せしめるべく、われわれ日本青年社は誇り高き日本人の姿を復元しうる模範となり、誤れる国情を軌道修正すべく『倫理・道徳・品格の向上』をもって基本理念とすることを宣言します。


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