建立五十周年を迎えた三ケ根山・殉国七士廟盛大に墓前祭挙行
平成22年6月5日
四月二十九日、愛知県幡豆町三ケ根山山頂・殉国七士廟に於いて七士墓前祭が盛大に挙行された。本年は七士廟が建立されて五十周年になり、記念すべき墓前祭であった。
昭和二十一年五月三日、極東国際軍事裁判が開始され、大東亜戦争の責任者として昭和二十三年十二月二十三日、七名がA級戦犯の汚名を着せられ、巣鴨拘置所に於いて処刑された。西欧列強の植民地からの解放という東亜諸国の共存共栄を求めた闘いは、圧倒的物量差によって敗北し占領軍の支配下に入った。裁判とは名ばかりの戦勝国による、戦勝国のための裁判が行われた。その目的は大東亜戦争を日本の侵略戦争と位置づけ、そこに一片の正当性も認めず、日本に対する原爆投下、大空襲という虐殺は一切問われず、突如「南京大虐殺」をデッチ上げて、ナチスと同列に扱おうとした。GHQの目的は日本を二度と連合国に立ち向かうことのない国にすることであり、そのためには天皇を中心とした国家を否定し、固い絆で結ばれた家族を破壊しなければならなかった。天皇陛下に対してGHQは東京裁判開始の公布を四月二十九日に行うことで敵対意識を鮮明にし、陛下の責任を裁判の中で明らかにしようとした。しかしA級戦犯とされた方々は「天皇陛下の御地位、陛下の御存在は動かすべからざるもの」(東条英機の遺書)との信念から「一切語るなかれ」と一切の弁明を拒否し刑場の露と消えたのである。七士の無念を共有するところから戦後の日本は再出発しなければならなかった。GHQは追い打ちをかけるように処刑の日を今上陛下の御誕生日、昭和二十三年十二月二十三日午前零時一分に定めた。東京裁判は天皇を中心にした日本の国体を否定するものとして位置づけられていたのである。しかし当時の日本人の多くは東京裁判を占領軍の軍政下ということもあり受け入れてしまった。大手新聞社をはじめ、全てのマスコミは戦争責任をA級戦犯に押し付け、自らの責任については口をつぐみ、教育現場に於いても戦犯非難が行われ、世論は東京裁判支持で固められていった。このような中で、この国を想い、戦争の真実を明らかにするために、心ある有志が力を出し合い建立されたのが殉国七士廟であった。昭和三十五年八月のことである。
昨年創立五十周年を迎えた日本青年社は創建時から慰霊祭に参列し、今日に至っており、五十年にわたり家族の方々、奉賛会の方々と手を携えて歩いてきたのである。東京裁判無効の訴えと日本精神の復活を求める我々の運動は未来永劫続いていくであろう。祭主福留佳子様、遺族代表板垣正様の力強い挨拶を受け来年の元気な再会を約束し散会した。