第 一 部
第五章 日清戦争から日露戦争へ(2)
 ロシアに対する強い危機感は日本だけではなかった。

 当時世界一の軍事力を持つイギリスも中国に多くの権益を持っていたので、ロシアの中国侵略に危機を感じていたのである。イギリスは日本との平等条約の改正、日英通商条約の締結などを通じ日本と接近しロシアと対抗しようとしていた。特に義和団事件に対して日本兵の厳正なる軍記と国際法厳守の姿に注目し「誇り高き孤立」を捨て、騎士道の国と武士道の同盟を結ぶことを決意したのである。

 日本では時の元老伊藤博文がロシアに乗り込み、説得を試みたが相手にされず、ついに日英同盟の道しか残されなかった。一九〇二年日英同盟が締結され日本は世界強国の国イギリスの支援を受ける国になった。

 日本は日清戦争でアジアを守る為の基本方針を中国・朝鮮と共同戦線を組む事をあきらめ、イギリスとの同盟に活路を求めようとした。一九〇四年ついにロシアとの間に戦争が開始された。世界中の人々はロシアに対し闘いを挑んだアジアの小国日本の勝利を考える事はなく、無謀な挑戦と思われた。しかし、ロシアの植民地になる道を選ぶか、開戦の道を選ぶかの選択肢しか存在しない中での開戦であった。

 白人帝国主義国はコロンブスの時代以来黄色人種の国と戦争をして負けたことは一度もなく、日本は敗戦を覚悟せざるを得なかった。日英同盟を結んだとはいえ、イギリスが日本に対し応援した事は軍事費の調達と情報提供程度であった。戦場は朝鮮半島と満州であり、戦争の内容も文字どおりロシアの侵略から自国を守る自衛戦争であった。一九〇五年日本の陸軍は旅順・奉天を占領し、海軍は日本海でバルチック艦隊を打ち破り、有色人種として初めて植民地化への防衛戦争に勝利したのであった。

 日露戦争に於ける日本の勝利は世界に衝撃を与え、植民地だけでなく、大国によって苦しみ続けていた多くの国々に希望と勇気を与えたのであった。トルコ、スウェーデン、ポーランドなど現在でも親日国であるが、当時は熱狂的に日本を称え、ビールや街路に「トーゴー」の名を付け、バルチック艦隊を打ち破った海軍の指揮官・東郷平八郎元帥を英雄として称えたのである。日本の歴史教育の中で日露戦争が非常に小さく扱われているのは何を意味しているのであろうか。バルチック艦隊四十隻のうち、三隻を残して全部撃沈し、拿捕した日本海海戦は世界の戦史の中でも類を見ないパーフェクトな勝利であり、世界に誇るべき歴史であるのだ。

 米英はもとよりロシア寄りのフランスでさえ、東郷元帥は現在でも写真入りで教科書に載り歴史教育の1ぺージを飾っている。白虐史観の克服が早急に求められる。日露戦争の影響は中国、インド、ベトナム、フィリピン、ビルマなどアジア全域に及び独立運動、革命運動の発生を促し、日本がアジアのリーダーとしての地位を確立していったのだ。

つづく

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