第 一 部
第一章 明治維新

  「維新」とは[維(こ)れ新たなり」という意味である。

 旧来のものを改め、全てを新たに始める一連の変革を維新といい、幕末から明治初期の変革を明治維新といった。日本という国が、西欧列強の植民地獲得競争の中で、独立を維持し、近代国家としての礎を築いた大改革が明治維新であった。

 当時の世界を見てみると、アジアに向かって西欧列強は植民地の奪い合いを行っていた。東南アジアの分割をほぼ終えた列強諸国は矛先を東アジアに向けてきた。日本・満州・朝鮮などが標的であり、ロシア、アメリカなど少し後れをとった列強が押し寄せていた。これらの状況を適確に把握し最良な改革を成し遂げたのが明治維新であった。

 近代国家建設に取り掛かった明治政府が最初に行ったことは「五箇条の御誓文」を発し立憲国家として発展して行く方向性を定めたことである(一八六八年三月)。年号も明治と改め、一世一元の制を定めた(一八六八年九月)。ここで最大の改革が行われる。廃藩置県である。徳川幕府は最大の大名であり支配力を持ってはいたが国民全体を支配する権力の集中はできなかった。県を置き知事を任命し国が徴税したことにより中央集権が可能になった。当然支配階級としての武士は失業した。ここで政府は学制・兵制・税制の改革を押し進めた。義務教育制度は子供を労働力と見ていた国民の理解を得るのは難しかったが、公平・平等の理念と「能力主義」を政府が採用することにより普及した。

 世界的に見ても日本の義務教育は西欧諸国を凌ぐものであった。現在でも西欧諸国は階級教育の名残をとどめた教育を行っており、アメリカでは日本の教育制度を採用している。封建社会から近代社会への移行が教育の普及をとおして行われたことと武士階級が抵抗勢力にならなかったことが改革の成功に繋がった。ちなみに沼津兵学校は徳川帯府が静岡藩に移されてできたものであり、学制の発布ど同時に廃校となった。

 教育で日本が優れていたことに付いてはその後の日本の大躍進を見ても明らかであり、世界に大いに誇るべき歴史的事実である。徴税に付いては地租改正を行い全国の土地を政府が管理し、地価を定めた。農民の私的所有権を認め納税の義務を制度化したこの改革により国家の財政基盤を築いた。士族・平民の区別なく兵役の義務を定め、国民軍を作り外敵に備えた。

 私たちがこの明治維新を良く知らなければならない理由は、戦後教育の中で、明治維新を否定的に見ようとする傾向があるからだ。勿論立憲君主制といっても今から見れば不充分なものであるし、平等といっても身分格差は存在した。しかし江戸時代には決して有り得なかった、能力さえあれば高位、高官にもなることができるという開かれた社会がそこにはあった。

 学制(明治5年)で教育は国家のためでなく、個人のために必要なのだとし「立身治産」の学問を説いた。更に「自今以後、一般の人民、華士族農工商及び婦女子、必ず邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめんことを期す」と宣言している。この学制は当時としては画期的であった。フランス学制を参考にしたものであったが遥かに徹底していた。

 ヨーロッパでは宗教を広めるための神学校や上流階級や支配者層の子弟を育てる寄宿舎付きの学校は発達していたが、全国民に対し、その才能と能力を十分に発揮できる、公平と平等な教育は日本をおいて他になかった。ヨーロッパやアメリカでもまともな義務教育が行われてきたのは1970年を過ぎてからであり、この教育への取組みの違いが日本を大きく育てていった。学制(1872年)発布、教育令、学校令(1885年・明治18年)と続いた教育改革こそ、近代日本の礎を築いた最大の根拠であった。ではなぜ日本でそのことが可能であったのか、という問題が残る。

 江戸時代では庶民教育を代表していたのが寺子屋だった。当初はその名のとおり、寺で住職が宗教教育を行っていたようだが、すぐ手習い所的ものに変化し武家の子女が先生であった。武士階級の教育機関としては藩校があり、幕府は昌平黌で儒学を教えていた。限界はあったが学問に対する競争力は持っていた。このことは西洋よりも中国の「科挙」制度の影響と思われる。近代的教育制度を西洋(フランス)から取り入れ、競争教育は中国からとりいれるシステムは試験至上主義、つまり教育の公平・平等と特権階級の廃止に繋がり、驚くべきスピードで近代化を成功させた。

 明治維新は武士階級の素晴らしい力に支えられた改革(革命)であった。自らの存在を否定する改革、それは支配者としての武士を否定するものであった。当然武力による反乱も起こったが小規模なものであった。武士は自らの存在を消し去るのと引き替えに、武士道という精神を全国民のものとした。武士道はそれまで武士階級に脈々と受け継がれてきたものであったが明治維新で日本国民の伝統文化に変わったといえる。「雛まつり」や「端午の節句」などの風習は庶民にはないものであったが、明治維新以隆国民的行事として定着した。

 国軍という武力を持たなかった日本が、武士道という精神によって軍隊を創設した。このことにより更に武士道は日本国民の精神的支柱になっていった。「教育」「徴税」「軍隊」のラジカルな改革により、東洋では唯一の先進国に変貌したのだ。「富国強兵」というスローガンこそ当時の国際環境を考えるならば、一番適切なものであり、一つの目的に国民全体が突進していった姿を思い浮かべることができる。これこそ戦略を持った国家のあるべき姿であり、世界に誇るべき歴史である。

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